団員の声(感想文)
台湾の地なら今後も訪れたい心境です
第五班 副班長 真栄田強
私は、沖縄県糸満市から今回初めて参加させて頂きました。糸満市は、沖縄本島南部に位置し、県立平和記念公園には、天皇陛下も皇太子時代を含め11回も行幸啓され、国立沖縄戦没者墓苑へ幾度も御供花されております。
また、各府県ならびに各種団体の慰霊塔が51基。太平洋を眺望する高台には、牛島満中将を祭る「黎明の塔」。平成28年6月には「台湾之塔」も建立され、今年6月24日には李登輝元総統も慰霊のため御訪問されました。
そのような環境のもと、私も時々参拝へ出向いた関係で「英霊への慰霊顕彰」には大変畏敬の念があり、近年靖國神社をはじめ21都府県の「護國神社」への参拝は終わりました。今回、大東亜戦争でアジア独立のため、共に散華された3万3千余柱の台湾国英霊への慰霊顕彰と、東日本大震災で多額の義捐金を頂いた世界一の親日国家である台湾への「第20次台湾慰霊訪問の旅」へ参加できたことを心より感謝しております。
初日は、厳粛のなか忠烈祠において献花式が催行されました。忠烈祠は、辛亥革命から中華民國建国ならびに革命、支那大陸での事変、台湾海峡危機等で戦死した国軍の英霊や国民を含む33万人を追悼する祠ではありますが、台湾国が総力を挙げ、荘厳かつ厳粛に管理され、かの有名な衛兵交代式では陸、海、空軍から選抜された衛兵によって1時間毎に実行されます。完全なる民間団体である一法人が、殉国の士246万6千余柱の英霊を祀る、わが国の靖國神社との相対的な相違など、情けなさを実感させられました。
夕食会は、日本では外務省の外交部署的と思われる「台湾日本関係協会主催歓迎夕食会」へ招待され、田中角栄総理の一方的非礼な外交遮断等を論じ、日台の早期外交改善策を切望しながらの楽しいひと時を過ごしました。
初日の宿泊地は、東京では千代田区に相当すると思われる都市、台北市中心の高級ホテルの広々とした部屋で、同室する相棒(5歳年下)の方と時事問題を語りながらも、明日へ向け就寝しました。
2日目は、ホテルでの朝食後、一路台北駅へ。日本が誇る新幹線技術を採用した台湾高速鉄道に乗車し、10時7分予定通りに台南駅に到着後、奇美博物館へ向かいました。奇美博物館は、台湾を代表する企業「奇美グループ」の創設で、広大な敷地に西洋風豪華絢爛の様相を呈し、1万点余の西・東洋芸術、楽器、動物(剥製)が展示された宮殿であるが、私には西洋文化が色濃く、台湾独自の文化芸術性に疑問を感じた点は心残りでありました。昼食は館内で済ませ、台湾では孫文・蒋介石と並ぶ鄭成功(3人の国神)を顕彰する安平古堡を見学し、次の訪問先へと向かいます。台南市安南区地中街の地域の鎮守である「保生大帝」を祀る、道教ゆかしい海尾朝皇宮にて献花式を催行し、近隣の飛虎将軍廟の慰霊式では、日の丸を掲げ、全員で君が代を斉唱後、黙祷を捧げ、小菅団長が祭文を奏上しました。
飛虎将軍廟とは、日本海軍の兵曹長杉浦茂峰氏(大正12年生)が祀られる廟です。氏は、昭和19年10月12日、台湾台南市上空でアメリカ空軍と空中戦で撃墜されながらも、海尾の集落を避け畑に墜落し散華されたのです。終戦後、海尾寮の集落では、「白い帽子と軍服を着けた日本の若い海軍士官が枕元に立っている」という夢を見たという者が数名いました。その後、集落の有志が集まり協議し、「その海軍士官が部落を戦火から救うために、自分の生命を犠牲に集落を守った」と、英霊として彼を祀ることにし祠が建てられたのです。そして、昭和46年に杉浦茂峰氏を祀る廟として現在の飛虎将軍廟が建立されたのです。その若き青年兵士を、集落の恩人として「保生大帝」と隣合せに祀る地元民の情愛に感嘆させられました。
夕暮れ頃、高雄の保安堂においても日の丸を掲げ、全員で君が代斉唱の後、黙祷を捧げ、小菅団長が祝詞を奏上し、儀仗のラッパが響く中で慰霊式を挙行いたしました。
昭和21年、漁網に頭蓋骨が上がりました。漁師たちはその頭蓋骨を祀り、弔うことにしました。すると大豊漁が続いたため、地元の人たちはお堂を建て、頭蓋骨を祀るようになりました。ある時、ある漁師の枕元に頭蓋骨の本人だと名乗る者が現れ、「帝國海軍38号哨戒艇艦長で、大東亜戦争で戦死した。ついては帰国のために船を造ってもらえないか」と告げたそうです。その後、帝國海軍38号哨戒艇の模型(神艦)も併せて祀られています。
平成25年11月23日、第15次慰霊訪問の旅の折、「38にっぽんぐんかん」の特定を依頼された訪問団は、各方面に働きかけ、調査しましたが特定するまでには至らず、有力情報として「第38号哨戒艇“蓬”」で、艦長高田又男予備大尉以下145名ではないかというところまで辿りつき、翌年の第16次訪問の際に報告した次第でした。その後の調査の結果、「第38号哨戒艇“蓬”」の、艦長高田又男予備大尉以下145名の名前が判明し、今年、保安堂建廟70余年を記念し海上招魂法会が行なわれたそうです。廟を囲む傍らには高田艦長以下145名の御名前を明記した提灯が掲げられ、各人の幟が靡き、御霊が私たちを大歓迎してくれたのか高揚感に侵りました。
慰霊式後、保安堂管理委員会の皆様による「歓迎夕食会」が開催され、若い方も多く、言葉は通じませんが、和気藹々とお互いにスマホの翻訳アプリを駆使しながらも美味しい料理に舌鼓を打ち、地元の強い酒で乾杯を繰り返すなか、不覚にも意識朦朧となり、その夜の出来事は脳裡に薄い感があります。
3日目は2時間少しバスに揺られ、屏東に到着。東龍宮でも慰霊式を執り行い、小菅団長が祭文を奏上しました。
東龍宮は、台湾発展に尽力された田中綱常海軍少将を祭神として、他に乃木将軍・北川将軍、また軍の看護婦であった中山其美(女子)将軍・良山秋子(女子)将軍の全祭神が日本人でありますが、道教方式による現地住民の信仰の対象になっております。
近くのレストランでの昼食後、後壁にある台湾李登輝友の会総代表である黄崑虎先生のご自宅、台湾の文化遺産でもある古跡後壁黄家を訪問しました。七包三式的四合院(7つの建物と3つの様式に囲まれた中庭を持つ)を黄崑虎先生自らの説明を聞きながら拝見し、仏間、応接室等の全ての柱には「家訓」が彫られ、教訓を得た感がありました。
この日の夕食はBプラン9名の合流組も加わる総勢73名のもと、台日友好協会主催の歓迎夕食会でしたが、8割が50~70代(30代も居た)の女性の方々が各円卓を活気付けられ懇親会を盛り上げました。蔡英文現総統も女性であり、その会では台湾女性のパワーを痛感させられました。
さて、本訪問団の最大の目的(自己思慮)は「大東亜解放」を目指し、日本軍と共に戦い、無念にも散華された台湾軍人の英霊顕彰であります。その場所は、台中市街地にある「宝覚寺」であり、台湾の靖國神社と呼ばれ、大東亜戦争で散華された台湾出身元軍人軍属3万3千余柱の英霊が厳かに祀られています。
そして、地元では毎年11月25日に慰霊祭が斎行されています。日本軍人として共にアジア解放のために志願した軍人軍属の殉職者です。「靖國神社と同等慰霊祭をすべし」との日本精神に基づき慰霊団は19回連続参列しているものと理解し、今回の第20次へ私も初参加し、感動を幾度も覚えたことは忘れることができません。
慰霊祭前には、同境内にある、日本統治時代に台湾で亡くなられた日本人の方々、1万余名が永眠されている「日本人墓地」においても慰霊式が滞りなく斎行され、最後には一人ひとり全員が御焼香を捧げご冥福を祈りました。
続いて慰霊祭は、霊安故郷碑(李登輝総統の揮毫)の前で行われました。先ずは、中華民國(台湾)と日本両国の国旗に敬礼、台湾国歌に続き君が代の斉唱、黙祷の後、献香、献花と続き、主催者ならびに小菅団長による祭文が奏上され、厳粛に挙行されました。
慰霊祭後の台湾台日海交会主催の歓迎昼食会では、慰霊祭を終えられた会員の方々と一緒に円卓を囲みましたが、ほとんどの方が日本教育を受けられたご年輩で、統治時代を語る姿には、当時の佳話で和みました。また戦後の蒋介石時代の悲哀を感じましたが、ただただ、来年の再会を祈願するのみでした。
その後一行は、バスに揺られて約2時間、新竹の田舎町の北埔にある南天山濟化宮へ向かいました。日本の靖國神社に祀られている台湾人は約2万8千余柱です。しかし、遺族の方々が靖國神社へ参拝することは大変厳しいために、40年前に靖國神社より御祭神の名簿を戴き、道教式の霊壐へと代え、7階建ての十地塔の室内へ隈なく奉納され、顕彰されています。団員一同、日の丸を掲げ君が代を斉唱し、黙祷を捧げ、小菅団長が祝詞を奏上し、献花式を挙行しました。式後、バスは1時間で新竹駅に到着し台湾高速鉄道で一路台北へ向かい、黄文雄先生主催の歓迎夕食会に招かれました。
黄文雄先生は、昭和13年に台湾高雄県で生まれ、昭和44年早稲田大学卒業、昭和46年明治大学大学院、拓殖大学客員教授を経て、鋭い筆法で評論活動を続け、そのダイナミックな歴史観と博覧強記の知識によって日本でもお馴染みの方で、参加していたメンバーも大学教授・新聞社社長・作家等、知名度の高い知識人で流暢な日本語で語り、多少の緊張はありましたが、共にお酒を酌み交わし歓談していると同じ愛国者であると確信しました。これまで開催された会食会場とは違い、本会場は一般庶民が利用する、いわゆる居酒屋タイプで、先生曰く「この店の従業員は殆どがインドネシアからの出稼ぎです。但し、料理だけは美味しいよ」と。現在、国会で議論中の「外国人技能実習制度」成立による我が国の2年後を垣間見る思いでした。なお、そのインドネシア人達は、大体が20代で台湾語も分からず、配膳が雑で、鍋物などはこちらが緊張させられた一面も見受けられました。もしかしたら、先生は其のところを警鐘されたのでは…と思いました。
最終日は、明治28年、台湾総督府より参事官心得を命ぜられ、明治30年宜蘭庁長に任じられた、明治維新の元勲、西郷隆盛の息子「西郷菊次郎」の功績を記念する碑、「西郷庁憲徳政碑」で献花式を挙行しました。宜蘭河の治水工事等多くの功績が認められる彼は、現在でも宜蘭の人々に愛されています。
最後は、台日文化経済協会主催の歓迎昼食会へご招待戴き、台湾を代表する御歴々の方々が温かく迎えて下さり、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、尋常小学校当時の思い出など拝聴しながら歓談しました。その席上、ある紳士へ「統一地方選では、蔡政権は惨敗でしたが大丈夫ですか」と質問しましたら「全く問題ありません。経済面は中国とは今後も歩調します。但し、武力で統一を図るとならば死力を尽くして戦います(概略)」。日本の経済界の重鎮へ拝聴させたいものです。心残りではありましたが、帰国の時間が3時間前と迫り、小菅団長が御礼の挨拶を述べられ、急ぎ桃園国際空港へと出発し、午後4時半発のチャイナ航空にて福岡へと帰国の途に就きました。
私は、生をなして63年、沖縄では大企業に在職はしましたが、海外旅行は今回が2回目です。これまで色々な機会はありましたが、全て拒否してまいりました。それは、高校2年生当時(昭和47年)韓国とボクシング親善大会へ県代表として渡航した折、一生屈辱を拭えぬ経験があるからです。
私は日頃、道徳=清潔と思っています。今回、台湾国での5日間の縦断の旅では、各地区ともに日本の都市よりも清潔で、田舎町でも更に実感しました。それは、正に教育の賜物だと思っています。
それと、国中を走る自動車の80%(自分の見立て)が日本車であり、台湾人が如何に日本を愛しているかを実感しました。
今回の慰霊訪問の旅では、各神社仏閣の参拝ならびに各種団体との会食を通し、日本の教育を受けた祖先が子孫へ「日本精神」を継承した結果、英霊を神と祀り、大切に信仰しているのは、やはり日本統治が正当だった証と確信し、台湾の地なら今後も訪れたい心境です。
第20次 団員の声(感想文)全38件
- 「学習資料」により知識を深めた(横尾秋洋)
- 台湾慰霊訪問団が誕生して20歳(はたち)になりました(田中道夫)
- 小菅団長を支える支柱として慰霊訪問団を継続する決意(原田泰宏)
- 毎回忘れがたい感動と思い出がある(富原浩)
- 11月22日は『台湾慰霊訪問の旅』と教えてあげましょう(田口俊哉)
- 百聞は一見にしかず(大山猛)
- 台湾と英霊(高橋幸久)
- 数々の節目の年に参加できて感謝(榊原みどり)
- 胸をえぐられた 周良仁会長の「皆さん後を頼む!」のひとこと(柴﨑一郎)
- 平成の御世、最後の慰霊訪問の旅(倉田光男)
- 「独立自尊」を教えられた旅(湯下雅俊)
- 「7班」と書かれたプレートのお蔭で生まれた小さな交流(鬼塚曜)
- 英霊の御霊のお陰様で、私たちの暮らしがある(久野貴子)
- 大きな達成感と清々しい気持ちで帰宅(岩附辰夫)
- 海の彼方のニッポンを訪ねて(牧之瀬千保子)
- 夢に出てきた森川巡査(根之木昭憲)
- 台湾の地なら今後も訪れたい心境です(真栄田強)
- 台湾における慰霊の在り方やその継続性について考えさせられた(堀明彦)
- 人のために生きる心が足りていない(宮﨑勇気/専修学校2年)
- 初めてだった父との二人旅(江藤敏伸)
- 今の自分に出来ることは、継続してこの旅に参加すること(木下栄次)
- 国を愛し、家族を愛し、頑張らなくてはと痛感(中山雄夫)
- 世界から尊敬される日本国に蘇らせなければならない(松永達始郎)
- 残念だったのはいつもお会いする方々と再会できなかったこと(本間潤子)
- 「歴史を知らない自分に気づかされた」大発見の旅(森澤満子)
- 尊敬される国に戻りたい(茅野櫻/中学3年)
- 私達にもできること(茅野慧/中学1年)
- 慰霊訪問の主旨が理解でき、感激もひとしお(石橋三之助)
- 将来の日本国の危機を想う(道崎光義)
- 慰霊訪問への参加が私の価値ある生き方と確信(津田建一)
- 第20次台湾慰霊訪問の旅が意味するものとはなにか(福田章枝)
- 生かされている限り参加したい台湾慰霊訪問の旅(久保山一雄)
- 生まれて初めての「天皇陛下万歳」の三唱に感動(宮地惠津男)
- この慰霊訪問こそ子供達の修学旅行に相応しい(宮地芳子)
- 訪問を重ねる毎に学びと交流が深まっていくことを実感(大石憲)
- 台湾慰霊の旅を終えて(泉邦芳)
- 湾生なのに台湾のことを何も知らなかった(江藤憲一)
- あの感動は言葉では表わせません(井口保二・井口婦美子)