ごあいさつ

海の彼方のニッポンを訪ねて~台湾慰霊訪問の旅を積み重ねて日華(台)親善友好慰霊訪問団 団長小菅 亥三郎小菅 亥三郎

今回、ホームページのリニューアル作業を契機に足掛け10年に及ぶ台湾との関わりを思いおこしていますが、実に様々なことが想起されます。

私とてはじめから慰霊を目的に台湾に行った訳ではありません。社員旅行の目的地として彼の地を選んだのが平成11年の3月でした。

ところがいろいろな人にお会いして行く過程でこういう形になってしまったわけです。そのあたりを手短かに、7人の方に登場していただき展開してみたいと思います。

命名の決定的重要性

まずはじめに社員旅行であるにもかかわらずこうい命名をしました。『日華(台)親善友好慰霊訪問団』。実に仰々しい名称で、はじめは多少の気恥ずかしさもありましたが、平成11年の3月に第1回目を実行した時からこの団体名で全員の名刺を作りました。

これは当時、福岡県郷友会の事務局長でありました日高清氏の助言によるものでした。

前年の平成10年10月10日に「日本会議福岡」が設立され、その副理事長を拝命した私は、福岡固有の活動として南京問題を提唱しておりました。福岡県と中国・江蘇省の友好提携五周年事業の一環として平成9年の10月に県の代表団の一員として省都・南京を訪れた私は、団長である麻生知事による南京屠殺館での献花式に強く反対していました。その当時「日本を守る福岡県民会議」の梶栗勝敏事務局長の紹介で面識のできた人の一人が日高氏でした。

氏は「折角、お金と時間をかけて台湾に行くのであれば、訪問団そのものに名称をつけなさい。ただの旅行の一団では先方さんにも忘れられてしまい、私たち自身の記憶も限りなく曖昧になってしまいますよ。」そういう助言をいただき、この名称にしました。ですから、もし私がこの助言を聞き入れてなかったら通俗的なただの旅行で終っていたかもしれません。日高氏の命名は今考えてみても非常にありがたいアドバイスだったと感じております。

慰霊式と君が代が開く運命の扉

2番目に蕭興従さんのお話しをさせていただきます。第1回目の旅行の時ですが、花蓮から日月潭に移動する時、バスは太魯閣峡谷を通りました。標高2000メートル以上のルートですが、そこで私たちのバスがガードレールを突破し、あわや全員谷底へ・・・という事故をおこしました。人里離れた高地での事故で、なす術もなかったのですが、その後偶然通りかかったクレーン車に引き上げられて何とか日月潭までたどりつきました。バスはもう使いものになりません。そこで代替バスがやってきました。

その代替バスの社長が蕭興従さんでした。氏は台中で朝日バスというバス会社と同時に保育園も経営しておられ、そのとき日月潭まで私たちを迎えにきてくれたのが氏の息子さんの運転する代替バスだったのです。

私たちは事故の翌日、台中の宝覚寺の日本人墓地で予定通り慰霊式を実行しましたが、私たちの歌う「君が代」をバスの運転席で待機していた息子さんが聞かれまして、お父さんに仲間の人が来ているよ、と報告されたらしいんです。

戦友会の人が来ている、こういう風に思われたのです。ですから、太魯閣で事故に遭わなかったら代替バスには廻り合わず、代替バスに廻り合わなかったら、その若い運転手さんともご縁がなく、慰霊式を行わず、君が代を斉唱しなかったら息子さんはお父さんに報告すらしなかったでしょう。

息子さんから報告を受けたお父さんの蕭さんはその後、私に11月25日の例大祭のご案内をして下さいました。

台湾に生きる日本精神との出会い

3番目は何といっても許國雄先生です。

日高氏から「台湾に行くなら絶対この人にだけは会ってきなさい」と言われまして、紹介状をもっていきました。この方は台湾南部の高雄で東方学園(当時は東方工商専科学校/日本の短期大学に相当する)という私立の大学を創設され、李登輝総統の時代に行政院(内閣)僑務顧問の立場で非常に力を発揮された方です。

私たちがこの先生の学校を表敬訪問させていただいたのは平成11年の3月の第1回目でしたが、びっくりしたことがありました。

それは『日本間』というものがありまして、そこに『教育勅語』が掲げてあったのです。

伊勢神宮や靖國神社はいわずもがな、わが国の主要な神宮・神社は殆んどといっていいほど参拝しておられた先生は、日本時代の若い頃は神職になりたかったそうです。

アメリカの国内法規ではありますが、『台湾関係法』というのがあります。この法律でもって、彼らは第7艦隊による台湾周辺の警戒を行っている訳ですが、それを締結された立役者が許國雄先生です。「私は大和文庫を作るんだ」と公言してはばからない先生に私は台湾には日本人以上の日本人が沢山おられるんだな、と知ったわけです。

家族交流・兄弟交流の開始

4番目は胡順来会長です。この方は中日海交協會という旧日本軍の軍人軍属であった台湾人の皆さんで作られた会ですが、そこに在籍されておられました。こういう会が台湾には沢山ありますが、その中のひとつが中日海交協會です。氏は現在、その会の会長をされておられますが、私が11月25日に斎行される台中・宝覚寺の慰霊祭に参列させていただこうと思いたち、2番目の娘を連れて行った平成11年の11月、台北の空港までお迎えに来て下さったのが胡さんでした。氏には台中まで車でお送りいただいた上に、11月24日の晩の前夜祭には戦友会をはじめ多くの皆様の集まりの中に私たち親子をご案内し、ご紹介して下さいました。また、例大祭後の25日・26日も大変お世話して下さいました。また、蕭興従さんのお宅に娘と二人でお招きされたのもこの時でした。

今思えば、これが今だに続き、大きなうねりにもなってきている両国の家族交流・兄弟交流の始まりであったのです。

わが国・日本で学ぶ台湾留学生との出会い

5番目は王淑貞さんです。この方は台湾慰霊訪問団をFMのラジオ放送で6回に亘って特集したとき(平成16年2月~3月)、出演して下さった九州大学の大学院生です。彼女はたった一回の出演でしたが、放送後、私が車で六本松まで送っていった時のことです。

車中いろんな話題に話が及ぶ中、彼女は学院でアルバイトをしたいと言いました。その足で私は職場を案内しました。

実際彼女はアルバイトには来れませんでしたが、二人の学生を紹介してくれました。邱惠照、陳怡勲といい、ともに高雄出身の女子学生でした。両人は本当に良く働いてくれました。

ですからもし、王さんと出会わなかったらそもそも台湾の留学生がうちにアルバイトにくるということは有り得なかったのです。いわんや現在のように「正社員として採用する」などということは絶対になかったことです。

(王さんを紹介してくれた当時の台湾在日福岡留学生会の劉建宏会長には本当に感謝しています。なお、劉さんは新幹線の技術を学びに九州大学に留学していた台北の学生でした。)

新規団員の募集に頼もしい助っ人

6番目は黄文雄先生です。結果としてですが平成11年に開始されたこの慰霊訪問団の行事は、他の行事がそうであるように様々な問題に直面してきました。

中でも大きな問題は「団員の募集」です。全員にリピーターになっていただく訳にもいきませんので、それは絶えざる新規募集という形を取らざるを得ません。はじめは地元紙含む4紙で募集をしました。西日本・読売・朝日・毎日です。平成12年の春から始めたこのプランも滑り出しは良かったのですが、平成13年5月28日に出しました読売新聞(夕刊)の全頁広告に中国領事館が横槍を入れ、妨害してきました。中国による内政干渉とそれに屈した大手新聞社の言論弾圧の開始です。

広告局と代理店の涙ぐましい努力にも拘らず、いま思い返しても誠に痛恨の極みというか、この団体名では新聞社は今後一切広告を出さないということになってしまいました。

企業トップが抗しきれなかったんでしょう。ここは一体どこの国かと思いました。そこで平成14年9月10日に産經新聞のご支援をいただき見開き2頁で募集広告を出しましたが、費用対効果で考えますと余り芳ばしくありません。そこで今度はホームページを作りましたが、直接募集に結びつく情報にはなかなか出会いませんでした。

窮すれば通ずと申しますか、次は苦肉の策として台湾講演会をやろうということになりました。こういう趣旨の講演会においでになる方は恐らく台湾を好きな人が多いだろう。そして、そういう方たちに慰霊旅行のご案内をさせていただこうと考えたわけです。

平成15年6月7日に第1回目を、翌16年6月5日に第2回目を開催しましたが、黄文雄先生にお出でいただいたのは平成17年6月4日の第3回目でした。

先生は訪問団の趣旨をよく理解され、祖国台湾を思う火のように燃えさかる情熱をこの講演会に捧げて下さると約束して下さいました。以降は黄先生にご講演をお願いしておりますが、この講演会にお出でいただきました皆様から着実に訪問団の団員になって下さる方が増えて参りました。有難いお話です。

公的認知と後ろ楯

7番目は黄明朗處長です。この方は福岡日華親善協会の天岡惇会長のご紹介でお会いしましたが、平成13年の10月13日の結団式・壮行会にご出席いただきました。

いくら親日国・台湾とはいえ外国であることに変わりはありません。多くの団員の皆様の道中の安全に責任をもつ団長の立場として、どうしても後ろ楯が欲しかったものですから、私はこの旅の趣意書と団員名簿・行程表をもって説明にいきました。處長は誠実に対応して下さり、全面的な協力を約束して下さいました。そのご縁で次の黄諸侯處長、そして現在の周碩頴處長とバトンタッチされておられる訳です。

慰霊訪問事業の将来展望

以上、実に様々な皆様のご縁とお陰で今日まで続けてくることが出来た台湾慰霊の旅ですが、目を転じて将来展望についても語ってみたいと思います。

まずはじめにこの企画は100%民間主体であるということです。わが国の公的機関から1円の予算措置も講じられておりませんが、これが私たちの団体の健全性を将来に亘っても担保する必要にして最低限の条件であると思います。名もない市井の人の依頼心なき善意の結集がどれほど強力な力を発揮するかが鮮明に把握できる環境の構築保持こそがこの慰霊訪問の原動力であるからです。

次にこの団の目的はあくまで大東亜戦争で亡くなられた元台湾人日本兵軍人軍属3万3000余柱の慰霊におくということです。かつてわが国の国民として、わが国のために戦い尊い命を捧げられた台湾人の皆様の勲を、戦後の日本人である私たちが現地・台湾で顕彰するというところがポイントであると思います。

過去、幾世紀にも及ぶアジアにおける欧米列強(白色人種・ユダヤ)による植民地支配の軛から、黄色人種を解放するという世界史的な偉業に貢献した彼らを、私たち・日本人が発掘し顕彰し続けなくて一体誰がこの作業をするのか、私はこの問題意識と使命感こそが団の魂と思っております。

最後に家族交流・兄弟交流について一言申し上げます。私たちは現地の人々と一緒に慰霊祭を執り行いますが、ともすると戦死者を「犠牲者」として把えがちな現代の風潮とは逆に、お国のために、そして共通の目的のために殉じた「英雄」として顕彰してきております。かくあってこそ慰霊祭の場は、私たちが彼らと同胞の契りを結ぶ格好の機会になり得るのです。ここから両者の間に家族交流・兄弟交流の関係が芽生えるにはさして時間はかかりません。団の目的からして必然的結果といえばそれまでですが、両者の関係はここまで昇華させなければまごころの交流はないと思います。

台湾に足を運ぶ度に思うこと

この団を組織してはや10年。台湾へ足を運ぶ度に思うことをまとめとして簡単に列記します。

一つは、支那(中華人民共和国)は事ある毎に台湾は中国の領土の一部である、と声明しているが、わが国に来て恫喝外交をして金をせびる国と、わが国と一緒になって戦いながら何の見返りも求めず親日的に接してくれる国(台湾)が同じ国である筈がありません。

二つは、英米蘭に宣戦布告し、戦いに決起した事に何ら口を差しはさまない台湾。しかし、わが国・日本が「負けた事」をしきりに悔しがる台湾。そして、日本人が「台湾を放棄し、引き揚げてしまった事」を寂しそうに語る台湾。統治時代50年間に構築した膨大なインフラを大切に活用し、わが国と共にアジアでも驚異的な経済発展と民主化をなし遂げた台湾。それが故に共産党による独裁国家支那・中国から一方的に領有宣言された台湾(『反国家分裂法』)。

三つは、お互いにたった一つしかない命を的(まと)に、大東亜の解放という大業に生死を賭け、世界史のうねりを大きく変えた若かりし日の実績を正しく認知し、その価値を共有することこそが誠の家族交流・兄弟交流の基盤を構築していくものと確信し、私たち訪問団は今年もわが国を代表し、この行事を実行していく所存です。台湾に思いを寄せる多くの皆さまのご教示、ご支援をお願いする次第です。

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