団員の声(感想文)
毎回忘れがたい感動と思い出がある
副団長 富原浩
今年は第20回台湾慰霊訪問の旅となりました。20年間もこの旅が続いていることに、小菅団長およびスタッフの皆さん、また支えて下さっている皆様に感謝申し上げます。そのお陰で、私の参加は平成26年の第16回から今年まで4回を数えます。
毎回、忘れ難い感動と思い出があります。
それは、初めて参加した時です。台湾に着き、最初の訪問先は烏來の観光地でした。今までに幾度か来ている観光名所です。私がいつも見ていた景色の反対側に元日本軍人の高砂族の慰霊碑があったのには驚きでした。慰霊訪問団の30数名は小菅団長を中心に整列し、国旗を掲揚、君が代を歌いました。南国の太陽の下で、日章旗の白は眩ゆいばかりに白く、赤は益々赤く、私の目に飛び込んでくるように思えました。
国歌を歌いながら込み上げて来るものがあり、自然と涙が出てきました。あの感動は今でも忘れられません。沖縄では国旗を掲げて国歌を歌う機会がとても少ないからです。この慰霊訪問の旅では、昼間に屋外で、しかも太陽の下で、正々堂々と歌います。初めての経験でした。君が代を歌える喜びと、日本人であることを誇れることが何より素晴らしく「俺は日本人だ」と心の中で叫びました。あの時が、仕事以外何も考えない仕事人間の私が、真人間に目覚めた転機の瞬間だったかも知れません。あの感動は忘れません。いや、忘れてはいけないと思っています。
台中の宝覚寺では、日本をわが祖国として大東亜戦争を戦い、散華された3万3千余柱の英霊が祀られていることを知り、驚きました。戦前生まれの人たちの日本人への思い、今なお日本精神を守り続ける姿を見て、台湾の本当の姿を知った思いでした。
翌年の平成27年の17次は参加できませんでした。その年、大手術をし、どうしても体力が回復しませんでした。しかし、沖縄から2人が参加しました。一人は「沖縄のジャンヌダルク」と言われている、我那覇真子さんでした。彼女は今ほどまだまだ名前が知られていませんでした。彼女はそれ以来、毎回参加し、今では家族ぐるみの参加です。私一人の参加から、今回の第20次では沖縄から8名の参加となり、嬉しい限りです。最初の慰霊訪問の旅から、私はすっかり台湾の虜になり、台湾大好き人間になりました。
翌年から、体力回復、健康回復のため自転車で運動することを思いつき、自転車で台湾一周する決意をしました。
平成29年の3月に台北駅から自転車を組み立て、出発しました。自転車にはまだ十分慣れていませんでしたが、意地と度胸の自転車旅でした。台北駅前の大きな通りを西に走ると、淡水河の上流に出ます。河川敷は立派な自転車道になっています。さすがは自転車天国です。台湾は世界で6番目ぐらいに自転車道が整備されています。
その日の宿泊予定地である淡水の街まで9キロ、立派な自転車道があります。川面には台北のビル群が映り、小雨は木々や道を濡らし靄見かかったようになり、景色を美しくしていました。しばらく走ると自転車に乗った80歳なかばぐらいの老人がこちらに向かって来ます。すると、すれ違う瞬間に微笑んで、自転車を止めました。
私も思わず停止しました。その老台北は自分の持っている傘を差し出し「この傘を使いなさい」という風に、私に渡してくれました。老台北は自分は濡れ、私に傘を差し出していることが分かり、自転車に不慣れな私は、驚きと感動で、自転車ごとこけてしまいました。
私は体勢を立て直し、厚く御礼を言って走り出しましたが、振り返ると老台北は見送るように立っていました。きっと背中のリュックに縫い付けた日の丸を見ていたに違いないと思いました。何と心優しい人でしょうか。台湾というと、最初に思い出す場面です。
結局、平成29年は8回も台湾自転車旅をしました。台湾一周の環島(カンタオ、全行程2200キロ)を走りながら、町や村々で地元の人たちと触れ合うのがとても好きです。毎回行くごとに深い思い出があり、私の心の財産です。慰霊訪問や自転車旅で感じた日本人への友好の思いは、老いも若きも同じであることを知りました。だからいつも感動があるのです。
今回の第20次台湾慰霊訪問の旅でも幾つもの心に残る場面がありました。紙面の都合もあり、1つだけ書きます。
日本軍艦を祀ってある高雄の保安堂を訪問した時です。例年のごとく、お堂の役員の皆様や役員の方々が堂の前で待っていてくれました。バス2台の私たちが到着すると同時にたくさんの爆竹や花火で歓迎してくれました。ポールには大きな日章旗が掲げられ、風に勢いよくはためいていました。お堂の周囲には軍艦旗が幾つも並び、韓国の軍艦旗拒否のことがあるだけに、何たる違いかと思いました。いつもながら台湾での歓迎風景には感動します。
堂内での慰霊式は小菅団長の祭文奏上で終わり、お堂の前の広場では歓迎夕食会が準備されていました。円卓のテーブルが20卓ほど準備され70数名の団員を地元の人たちが歓迎して下さいました。それぞれのテーブルに地元の方々が入り、慣れない言葉と手まね足まね、そして筆談などで御馳走をいただきながらの交流でした。テーブルには次から次へと手料理が運ばれてきます。どの料理も美味しく、とても満腹で食べきれないほどでした。
保安堂の皆さんの熱烈歓迎に感動し、お酒の飲めない私も、ビールや紹興酒をついつい飲んでしまいました。
4泊5日の慰霊の旅は、日本と関わりのある史蹟やお寺、お堂を回り、昼食会や夕食会では地元の方々や財界、政界、政府の関係者などとの交流があります。単なる食事会ではなく、「日台の魂の交流」というに相応しい旅でした。
いつも台湾慰霊訪問の旅に参加して感じることは、台湾の方々の日本への熱い思いです。もはや兄弟、家族のような関係だと思います。
また来年も健康に留意して、参加したいと思っています。
第20次 団員の声(感想文)全38件
- 「学習資料」により知識を深めた(横尾秋洋)
- 台湾慰霊訪問団が誕生して20歳(はたち)になりました(田中道夫)
- 小菅団長を支える支柱として慰霊訪問団を継続する決意(原田泰宏)
- 毎回忘れがたい感動と思い出がある(富原浩)
- 11月22日は『台湾慰霊訪問の旅』と教えてあげましょう(田口俊哉)
- 百聞は一見にしかず(大山猛)
- 台湾と英霊(高橋幸久)
- 数々の節目の年に参加できて感謝(榊原みどり)
- 胸をえぐられた 周良仁会長の「皆さん後を頼む!」のひとこと(柴﨑一郎)
- 平成の御世、最後の慰霊訪問の旅(倉田光男)
- 「独立自尊」を教えられた旅(湯下雅俊)
- 「7班」と書かれたプレートのお蔭で生まれた小さな交流(鬼塚曜)
- 英霊の御霊のお陰様で、私たちの暮らしがある(久野貴子)
- 大きな達成感と清々しい気持ちで帰宅(岩附辰夫)
- 海の彼方のニッポンを訪ねて(牧之瀬千保子)
- 夢に出てきた森川巡査(根之木昭憲)
- 台湾の地なら今後も訪れたい心境です(真栄田強)
- 台湾における慰霊の在り方やその継続性について考えさせられた(堀明彦)
- 人のために生きる心が足りていない(宮﨑勇気/専修学校2年)
- 初めてだった父との二人旅(江藤敏伸)
- 今の自分に出来ることは、継続してこの旅に参加すること(木下栄次)
- 国を愛し、家族を愛し、頑張らなくてはと痛感(中山雄夫)
- 世界から尊敬される日本国に蘇らせなければならない(松永達始郎)
- 残念だったのはいつもお会いする方々と再会できなかったこと(本間潤子)
- 「歴史を知らない自分に気づかされた」大発見の旅(森澤満子)
- 尊敬される国に戻りたい(茅野櫻/中学3年)
- 私達にもできること(茅野慧/中学1年)
- 慰霊訪問の主旨が理解でき、感激もひとしお(石橋三之助)
- 将来の日本国の危機を想う(道崎光義)
- 慰霊訪問への参加が私の価値ある生き方と確信(津田建一)
- 第20次台湾慰霊訪問の旅が意味するものとはなにか(福田章枝)
- 生かされている限り参加したい台湾慰霊訪問の旅(久保山一雄)
- 生まれて初めての「天皇陛下万歳」の三唱に感動(宮地惠津男)
- この慰霊訪問こそ子供達の修学旅行に相応しい(宮地芳子)
- 訪問を重ねる毎に学びと交流が深まっていくことを実感(大石憲)
- 台湾慰霊の旅を終えて(泉邦芳)
- 湾生なのに台湾のことを何も知らなかった(江藤憲一)
- あの感動は言葉では表わせません(井口保二・井口婦美子)