団員の声(感想文)

台湾慰霊訪問団が誕生して20歳(はたち)になりました

団長代行 田中道夫

日華(台)親善友好慰霊訪問団(以降「慰霊団」)が結成された第1次から数えて今年で第20次になります。

私は第3次訪問から参加していますが、人間で謂えば3歳の時から20歳になり、成人しました。長かったような、短かったような一つの歴史です。大東亜戦争で日本兵として亡くなられた3万3千余柱に、日本人国民として追悼と感謝の誠を捧げる旅です。日本人として散華された英霊たちは、今の日本を見てどう思われているのでしょうか。大東亜という日本の理想は、植民地にされたアジアの多くの国々を救うことが出来たのかも知れませんが、現在多くの日本人が日本人としての誇りは失ったと見えているかも知れません。

また、原台湾人の方からよく言われることは、「大東亜戦争において一つだけ悪い事をした。それは戦争に負けたことだ」と。「しかし、いつかまた日本は再び台湾を救いに来てくれるだろう、信じていますよ」と。今の日本を見るとたった一つの命を捧げ、亡くなった英霊に申し訳ない気持ちです。

11月25日に宝覚寺において慰霊祭が行われました。式の終わりに、当時19歳で現在93歳になる元従軍看護婦の陳恵美さんが想いを話して下さいました。青春時代を日本軍と共に戦地で戦い、終戦になり台湾に引き揚げになったことを涙で話された言葉の中には、恨みなどは全く感じませんでした。一生懸命生きてこられたのでしょう。涙したのは私一人だけではなかったと思います。昨年の19次の訪問の時は他に、いつもお会いしていた4名の元従軍看護婦の方々がおられましたが今年は来られていません。思い返せば昨年、「また来年も来たいが、来れるかどうか分かりません…」と。皆さんご高齢になられました。また来年もお会いできるように、お元気で過ごされることを祈るばかりです。

慰霊団は北の台北から南の台南、高雄、そして屏東まで旅をして各地で慰霊式を斎行しますが、私は一つ憂いがあります。それは、各廟には管理のための委員会がありますが、皆さんご高齢でこの先どうなるのか…ということです。しかし、訪問していく中で、その憂いが少し解消されたと感じることが出来ました。

一つは飛虎将軍廟です。飛虎将軍廟では地域の住民の方々、特に小学校の生徒さんが、村を守ってくれた杉浦兵曹長の物語を寸劇や紙芝居で、学校教育として伝承しています。訪れた11月23日は飛虎将軍の聖誕祭でしたが、廟の周りは人形劇の屋台や供物の棚が多く設けられ、地元の多くの方々に歓迎を受けました。毎朝晩、「君が代」と「海ゆかば」の曲が祝詞として流されています。

もう一つは保安堂です。今回初めて開催された歓迎夕食会では慰霊団を含め、150人位が参加していたと思います。地域の30代の方が多く、漁師を生業としているとの事でした。時々、網には遺骨らしきものが掛かるそうで、丁重にお祀りしているそうです。他にも濟化宮では小雨の中、祖父(94歳)の手を引き、訪問団を訪ねて来られた30代のお孫さんを目にしました。多くの場所で我々慰霊団を歓迎して下さる方々には、親に手を引かれた子供たち、お孫さんと共に参加される姿が見られます。確実に日本と台湾の絆が継承されていると強く感じました。

私はこの20年の慰霊訪問の旅で、日本と台湾の歴史と民族文化を通じて、日本人としての誇りと生命の絆を強く信じることが出来ています。そして、多くの若い世代にも伝わっている、これが20年の慰霊団の歴史です。

第20次 団員の声(感想文)全38件

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