団員の声(感想文)
英霊の御霊のお陰様で、私たちの暮らしがある
第八班 班長 久野貴子
台湾特別講演会の実行委員になって3年。そろそろ参加しないと、という気持ちで参加しました。私の台湾訪問は今回が3度目でした。
祖父の伯父後藤廣三は、大日本帝國陸軍飛行第八戦隊長を昭和8年から2年間勤め、閣下と呼ばれていました。祖父もよく台湾へ渡航していたのを覚えています。第八戦隊は、今回の訪問地でもある屏東にある為、その地に思いを馳せました。旅行の前の週には、曽祖母の五十回忌の法要を勤めたばかりでした。
小菅団長がよくおっしゃる「人は二度死ぬ。一度目は肉体の死、二度目は忘却による死」。全ての人が、その人の存在を忘れてしまった時に、本当に人は死ぬ。一度目の死は、誰もが決して避けることが出来ません。しかし、二度目の死は回避することが出来ます。そんなことを実感する11月でもありました。
福岡空港での出発式には台北駐福岡經濟文化辦事處の陳忠正處長がいらして下さり、盛大にお見送り下さいました。これも20年という長い歳月を、小菅団長ご夫妻が台湾と共に歩んでこられた歴史、深い信頼によるものです。
今回の訪問の最初の地である台北の「忠烈祠」は衛兵交代式で有名です。台湾人にとって護國神社に当たるこの忠烈祠は、中華民國建国および革命、戦争などにおいて国軍として戦没した英霊を祀る祠で、中華民國国防部の管轄下にあります。
日本統治時代には台湾護國神社があった場所に建立されているそうです。私は2度目の訪問でしたが、衛兵は、戦没した英霊を護衛しているということを初めて知りました。小菅団長に対する、戎義俊前台北駐福岡經濟文化辦事處處長の厚い信頼のもと、立ち入り禁止区域内の大殿での正式参拝、特別見学でした。一糸乱れぬ衛兵交代は、鍛え抜かれた先鋭の兵士によるもので、言わば日本にとっては敵国の戦死者ではありますが、「戦いが終われば、昨日の敵は今日の友」(第20次学習資料より)、意味を知って見学すると感激もひとしおでした。
安平古堡、海尾朝皇宮、飛虎将軍廟、保安堂、東龍宮、宝覚寺(忠烈祠には、日本軍に従属して戦死した3万3千余柱は祀られていない)、濟化宮で、多くは若くして日本国に命を捧げた英霊に読経し、手を合わせました。
特に台湾の靖國神社に当たる宝覚寺の日本人墓地での慰霊式では、尼崎からいらした真言宗の槇尾亮順師の読経が唱えられ、ご供養が御霊にきっと届いたことでしょう。
台湾李登輝友の会総代表の黄崑虎先生のご自宅でもある後壁にある古跡黄家の訪問も、素晴らしいことでした。
最終日に訪問した、西郷庁憲徳政碑の周りの河岸は、まるで久留米の筑後川か河川敷とよく似た日本のようで、日本人の素晴らしい足跡を辿ることが出来、献花式で「島津いろは歌」を暗唱された高橋氏には、思わず脱帽したものでした。
いずれの訪問先でも、盛大な歓迎、おもてなしを戴きまして、改めて小菅団長ご夫妻のこれまでのご尽力と、最強の親日国台湾を心に刻みました。
また、甲飛喇叭隊第十一分隊(ラッパ隊)の皆様が、3日間、儀仗として慰霊訪問団に同行して下さったことにも感激しました。30代の皆様で、筑波山などの山中でご遺骨を拾い、飯盒炊爨をして、英霊と共に食事をするという喇叭隊の皆様に厚く御礼申し上げます。ラッパは今も変わらず使われている「兵器」で、起床、食事などの時を知らせ、戦場では発砲など大事な合図であるという貴重なお話も伺いました。
佐渡からご参加の本間さんとの四晩は、私にとって尊いものでした。本間さんの朝は、持参した靴墨で靴を磨くことから始まります。横浜暮らしが長かった本間さんは滑舌のよい標準語で、戦中のこと、佐渡の話、曽我さんの話、新潟大学教育学部での学生生活の話(東大や京大から来た教授たちは社会派学者ばかり、そんな人たちが将来の先生を育てた)等をして下さいました。
「そりゃあさあ、台湾のみなさまが、戦争で亡くなった日本の国の人たちのことを、こんなに手厚く祀って下さっているのはありがたいことと思うわよ。何度でも来たいと思うわよ。」
この言葉を伺ってから、気を張っていた私の心持ちは、するりと溶けました。
同じ八班の方々は「湾生(昭和10年代に台湾で生まれた)」の方が3人もおられ、5日間昼食を共にし、台湾にとても親しみを覚えました。息子さんを連れての親子の参加もあり(実は、お父様連れだったのですが)、実に頼もしいことでした。
沖縄からの我那覇真子さんも、お父様、妹さん連れでした。元々、彼女のファンだったこともあり、屏東での昼食で隣の席になったのは嬉しかったです。食後、駅まで散歩(我那覇さんは撮影散歩でしたが)を楽しみました。しっかりした考えを持ち、日本愛、沖縄愛に富み、日本でこんなに有名なのに、驕らず、純粋です。
親子3人の会話は、
「お姉ちゃん(お父様の呼びかけです)、もう時間がないよ、急がないと」
「(そのお父様の言葉を物ともせず)これおいしそう」
と、きな粉のお餅をお買い物。高速道路のサービスエリアでの会話はとても微笑ましいことでした。近いうち、来福の折に、高宮八幡宮(私の氏神様です)でお話し下さいとお願いしました。
長野の岩附様、律儀なロングコート姿が印象的でした。またご縁が続くと思います。
英霊の御霊のお陰様で、私の暮らしがあります。毎朝の日課である先祖供養の御行に加え、英霊の御供養、そして英霊様がより良き高い世界に行かれるよう神様にお願いする御行を、今日より私の一日の始まりとします。背筋の伸びた生活をすることを努力したいと、心より思いました。
日本には靖國神社、護國神社があります。中共、韓国が何と言おうと、日本国の英霊に日本人が手を合わせるのはごく当たり前のことです。日本国と地域の政を司る方々には、断乎として、終戦記念日に正式参拝をお願いしたいものです。内閣の皆様におかれましては、靖國神社参拝を一日の始まりと日課になさいますと、日本の国が良い方向に進むと信じます。
小菅団長ご夫妻は勿論のこと、より良い旅になるように、練りに練った旅程、資料作成に壮大な時間を費やして下さったスタッフの皆様に、深謝申し上げます。
第20次 団員の声(感想文)全38件
- 「学習資料」により知識を深めた(横尾秋洋)
- 台湾慰霊訪問団が誕生して20歳(はたち)になりました(田中道夫)
- 小菅団長を支える支柱として慰霊訪問団を継続する決意(原田泰宏)
- 毎回忘れがたい感動と思い出がある(富原浩)
- 11月22日は『台湾慰霊訪問の旅』と教えてあげましょう(田口俊哉)
- 百聞は一見にしかず(大山猛)
- 台湾と英霊(高橋幸久)
- 数々の節目の年に参加できて感謝(榊原みどり)
- 胸をえぐられた 周良仁会長の「皆さん後を頼む!」のひとこと(柴﨑一郎)
- 平成の御世、最後の慰霊訪問の旅(倉田光男)
- 「独立自尊」を教えられた旅(湯下雅俊)
- 「7班」と書かれたプレートのお蔭で生まれた小さな交流(鬼塚曜)
- 英霊の御霊のお陰様で、私たちの暮らしがある(久野貴子)
- 大きな達成感と清々しい気持ちで帰宅(岩附辰夫)
- 海の彼方のニッポンを訪ねて(牧之瀬千保子)
- 夢に出てきた森川巡査(根之木昭憲)
- 台湾の地なら今後も訪れたい心境です(真栄田強)
- 台湾における慰霊の在り方やその継続性について考えさせられた(堀明彦)
- 人のために生きる心が足りていない(宮﨑勇気/専修学校2年)
- 初めてだった父との二人旅(江藤敏伸)
- 今の自分に出来ることは、継続してこの旅に参加すること(木下栄次)
- 国を愛し、家族を愛し、頑張らなくてはと痛感(中山雄夫)
- 世界から尊敬される日本国に蘇らせなければならない(松永達始郎)
- 残念だったのはいつもお会いする方々と再会できなかったこと(本間潤子)
- 「歴史を知らない自分に気づかされた」大発見の旅(森澤満子)
- 尊敬される国に戻りたい(茅野櫻/中学3年)
- 私達にもできること(茅野慧/中学1年)
- 慰霊訪問の主旨が理解でき、感激もひとしお(石橋三之助)
- 将来の日本国の危機を想う(道崎光義)
- 慰霊訪問への参加が私の価値ある生き方と確信(津田建一)
- 第20次台湾慰霊訪問の旅が意味するものとはなにか(福田章枝)
- 生かされている限り参加したい台湾慰霊訪問の旅(久保山一雄)
- 生まれて初めての「天皇陛下万歳」の三唱に感動(宮地惠津男)
- この慰霊訪問こそ子供達の修学旅行に相応しい(宮地芳子)
- 訪問を重ねる毎に学びと交流が深まっていくことを実感(大石憲)
- 台湾慰霊の旅を終えて(泉邦芳)
- 湾生なのに台湾のことを何も知らなかった(江藤憲一)
- あの感動は言葉では表わせません(井口保二・井口婦美子)