団員の声(感想文)

慰霊・交流の旅

第六班 岩﨑班 堀明彦

日華(台)親善友好湾慰霊訪問団のことを知ったのは今春の「日本会議」の講演会での配布資料であった。大東亜戦争の歴史や戦史には若い頃から関心があり、東南アジアの戦跡や慰霊碑を訪ね先人の足跡を辿りたいと思っていた所、訪問団のことを知り参加しようと思い立った。

私の先の大戦についての基本的な問題意識は、その意義や戦史の評価が余りにバランスを失しているのではないか、戦争の原因やその結果(勝敗)は、複雑で様々な要因が複合的に作用して生じるものであるが故に様々な見方が成り立ち得るものである。戦後は過去を否定するのに性急で負の側面に偏った評価となっており、もっとバランスのとれた見方が必要ではないかということである。これに関連して、領有した台湾、併合した朝鮮とで、片や世界一の親日、片や世界一の反日と、何故真逆の評価なのかという問題意識がある。今回の旅はこの問いの答えを自分なりに探してみようとしたものでもある。

一 慰霊の旅
(1)大東亜戦争で戦死した台湾人と日本人
慰霊の中心は大東亜戦争で日本人と共に戦った台湾人の戦死者と日本人の戦死者である。台中の「宝覚寺」では、台湾に骨を埋めた日本人(戦死者を含む)の墓にお参りした後、台湾台日海交会主催の慰霊祭に参列して先の大戦で日本人として亡くなった台湾人の霊に敬意と感謝の誠を捧げた。また新竹の「濟化宮」は台湾の靖國神社と言われるお宮で、大東亜戦争で戦死した約4万柱の祭神が祭られていた。日本の靖國神社から40数年前に分祀されたもので、台湾の関係者の熱い思いが伝わってくる。さらに台南の「潮音寺」は、輸送船の墓場と呼ばれたバシー海峡での25万人と言われる戦死者の菩提を弔うお寺で、日本人の手によるものである。台湾最南端の鵝鑾鼻岬ではバシー海峡の戦没者に向け献花をし慰霊した。
(2)神となった日本人
台湾には日本人を神様として祀る社寺が多く存在しているそうで、今回はそのうち4か所を訪れ、お参りした。
台湾中部の嘉義にある「富安宮」には森川清次郎巡査が「義愛公」として、台南市にある「飛虎将軍廟」には日本海軍パイロット、杉浦茂峰少尉が「飛虎将軍」として祀られている。高雄市にある「保安堂」は、大東亜戦争時に沈没した海軍艦艇の乗組員の遺骨を祀っていて、軍艦の模型がご神体同様に安置されている。台湾南部の屏東県にある「東龍宮」には、田中綱常少将が祀られている。この宮は現宮主である石羅界さんによって創建されたもので、祭神の田中将軍は明治の人で台湾とは縁は深いものの台湾で亡くなった訳でもないが、彼女の夢枕に立ったという。不思議な縁というほかないが、はっきりしているのはその夢を信じ、お告げに従ってその霊を祀るためお宮を創建した石さんの思いと行動力と支援している地域の人々の思いだ。このような不思議な縁起は他の社寺でも同様であった。想像をたくましくすれば、これも日本統治時代の日本人の献身ぶりを伝えてきた台湾という風土の為せる業なのであろうか。
(3)六士先生の碑
「日本精神」は日本統治時代の教育の成果であると言われるように、当時の教育は今でも高い評価を得ているが、その教育の礎となったのが、1896年元旦に起きた芝山巌事件という6人の先生の抗日ゲリラによる殉難であった。芝山巌神社にお参りをし、学務官僚遭難之碑で慰霊式を行った。
(4)白団
樹林市にある「海明禅寺」には、富田直亮陸軍少将の遺骨が祀られている。戦後蔣介石総統からの依頼により旧帝国陸軍幹部が台湾に渡り、台湾の国府軍に軍事教育を長期(昭和24年~44年)に亘り実施した軍事顧問団の通称名が白団である。顧問団の団長の富田少将の台湾名、白鴻亮からとられたものだ。

これら慰霊の旅を通じて思うことは、同胞といえども敗戦国日本と共に戦い戦死した人々の慰霊・追悼を公的には勿論、私的にも行うことは、国民党一党独裁時代には困難であったろう。ましてや日本人の戦死者は言わずもがなではなかったか。日本統治時代を知る年配者は日本への望郷の念に似た思いをもっていたとしても、戒厳令下の台湾では大っぴらに親日というわけにも行かなかっただろう。戒厳令解除後、李登輝総統時代を経ることにより、日本統治時代が見直されその評価が一般化してきて今日の慰霊の姿となったのだろう。

白団の歴史も政権中枢に与えた影響は大きかったのではないだろうか。白団は台湾の戦後史の日本との濃密な関係を示すものであり、終戦直後の支那大陸からの内地帰還に対する蔣介石の配慮に報いようとするものであるが、要は恩讐を超えての協力であったろう。また、戦後(1949年10月)の金門島の戦いにおいて日本の根本博中将の果たした役割(共産軍の侵攻を金門島で破り台湾侵攻を断念させた)は知られてはいまい。

戦後、連合軍により東南アジアの各国で神社を始めとする日本が造った道路、橋、建物(学校を含む)などを徹底的に破壊し、日本の痕跡を失くしてしまおうとしたと聞く。台湾でも相当程度破壊されたと思われるが、他の国々と比べ、今に残る多くの日本ゆかりの社寺や碑の存在は、台湾の人々の熱意なくして語ることはできないが、戦後台湾への軍人達の協力が国民党政権に与えた影響が少なくなかったことを示してはいないだろうか。

軍隊は「死の共同体」と言われるように生死をともにする集団であって、その絆は通常の友情を遥かに超えるものであろう。因みにインドネシアの親日の理由として、対オランダ独立戦争に参戦した多くの日本軍人の存在があることはよく知られている。

二 現地の人々との交流
行く先々で歓迎の宴を催していただき台湾の人々との交流を楽しむことができた。同席した方々は、黄文雄先生を始め、台湾日本関係協会の職員、建築家、核物理学者で考試院の審議委員など多士済々であった。必ずしも十分なコミュニケーションはできなかったが、いずれの方も笑顔を絶やさず誠実に対応していただいたことに感謝したい。言葉は通じずとも緊張感を感じることもなかったのは、日本への共感がその立ち居振舞いや表情に表れているからであろうか。高雄で若い娘さんと同席したが、あのように純真で可憐な印象を受ける女性に会ったのは久しぶりであり、台湾に残る古き良き日本の面影を見た思いだった。

三 まとめ
今回の旅は、大東亜戦争で戦死した方々の慰霊と親日派の台湾の方々との交流の旅であった。この旅を通じて、大東亜戦争の苦しくとも陸に海に空に勇戦敢闘した父祖の戦いに想いを馳せるとともに、教育や治水事業等の近代化インフラ整備など、日本の統治が台湾の人々に正当に評価されていることを直に見聞することができた。
ところで、最初の問いの答えは見つかったか。大きすぎる問いへの答えは簡単ではないが、さしあたりの自分なりの答えを記しておきたい。

台湾の親日、韓国の反日の理由も自分なりに概ね承知しているつもりであるが、この旅を通じて新たに知り、また確認できた点を要約すれば、次の4点となろう。
(1)日本人を祀る社寺が今も多く存在していること
(2)台湾の軍隊の近代化に日本人軍事顧問団が大きな足跡を残していること
(3)日本統治時代から台湾の近代化の歴史が始まったとの認識が広く共有されていること
(4)「日本精神」が望ましい人間の在り方を指す言葉として今も生きていること
これらは基本的に日本統治時代の良き思い出・遺産と言うべき事柄で、当時の先人達の台湾愛と献身に対する台湾の人々の共感と感謝の思いが伝わってくる。

このような日本人の情熱と使命感はどこから来るのか。その根底にあるのは、日本人の一所懸命の一途さ、「武士道精神」ではなかったか。統治者は統治者たる職分と責任、農工商業者はそれぞれの職分を果たすことで全体として平和で安定し、文化も花開いた幸福な時代を築いてきた。当時、識字率は世界一、江戸は世界一の大都市であった。そうした土台の上に明治以降の近代化があった。武士道精神を持った台湾総督府の良質な役人が渾身の力を揮って台湾の近代化に取り組み、その成果を台湾の人々が感じ取ったからこそ、その記憶が脈々と受け継がれて今日の親日台湾を築き上げたのではないかと思う。

八田興一が10年かけて作り上げた烏山頭ダムと、地球半周分の潅漑施設(水路)が台湾最大の穀倉地帯を誕生させたことは広く知られているが、神として祀られている日本人、顕彰碑のある六士先生も、一身を顧みず職責に殉ずる日本人の精神(日本精神)の発露として、台湾の人々の心に訴えかけたのであろう。

以上で、台湾の問いについては一応の答えとしたいと思うが、朝鮮については今回のようなことは考えられず、当面は台湾の裏返しとして理解することになろう。

最後になりましたが、今回の旅をお世話いただいた小菅団長を始めとする日台の関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

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