団員の声(感想文)

英霊に導かれた不思議な偶然

副団長 富原浩

第19次台湾慰霊訪問の旅では潮音寺が訪問先になりました。潮音寺は私にとって2度目の参拝となります。

今年の6月24日、暑い中に1人で訪ねました。探すのに時間はかかりましたが、丘の上に立つ白い建物は、周囲に何もないせいか、夏の太陽の輝きまぶしいほどでした。入り口のシャッターはおりていました。ここに来るには前もって連絡しなければなりませんが、私は潮音寺を見てみたいという思いだけで来ましたので、その時は何の予備知識もありませんでした。

ここへ来るきっかけになったのは、6月に開催される恒例の台湾特別講演会の時でした。講演会は懇親会に移り、トイレに行こうと歩いていると、立ち話中の髙間光廣さんの傍を通った時、髙間さんの声が耳に入りました。「台湾に行くのだったら『慟哭の海峡』ぐらいは読んでおかないとな―」。この一言がとても心に残りました。今思うと、不思議な偶然でした。私が髙間さんの傍を通るのが早くても、遅くてもその一言を聞くことはなかったのです。

私は早速、博多駅前の紀伊国屋書店で「慟哭の海峡」を買い求めました。今、この本を手に取って見ると、表紙の裏に2017年6月19日と書かれています。私が購入した日付です。そして、最後の裏表紙に2017年6月25日読了とあります。本を購入し、すぐに台湾行きを手配して、この台湾南端の墾丁(こんてい)に来るまでに読んだのでした。潮音寺に来たのは6月24日でした。「慟哭の海峡」はジャーナリストの門田隆将氏がバシー海峡で奇跡の生還を果した中嶋秀次氏を取材し、話を直接聞いて書き上げた実録の本でした。

中嶋氏は大東亜戦争で、約5千人の兵隊が乗った「玉津丸」でフィリピンの前線に向っていましたが、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃によって、ここバシー海峡で撃沈されました。実に多くの兵隊さんがこの海峡の海底に沈んでいったのです。

中嶋氏は奇跡的にイカダにしがみついていました。当初は、4〜50名の人が幾つかのイカダに乗っていたそうですが、バシー海峡の荒波は1人ずつ海底へとさらっていったそうです。12日目には、中嶋氏ひとりになり、絶命寸前で友軍の船に救助されたのです。高雄の陸軍病院に担ぎ込まれても、ほとんど死のぎりぎりのところで踏みとどまり、数日の後に命は生き返りました。私は、世の中にはこんなにも強い人がいるものだと驚きました。

一命を取りとめた中嶋氏は戦後、船とともに死んでいった戦友を忘れることができませんでした。彼らを弔うために自分の財産をなげ打って、潮音寺建立に命を賭けました。中嶋氏が後半生を賭けて造られたのがこの潮音寺です。

黒い御影石で造られた石碑を見ると、建設に協力した日本人、台湾人の名前が彫られています。

初めて訪れた潮音寺は静かでした。百亜の建物は、シャッターが閉まっていました。私は石碑に手を合わせました。「バシー海峡戦没者慰霊の碑」と書かれていたように記憶しています。この海峡で亡くなられた20数万を数える英霊碑なのだとわかりました。

再び、あたりの静けさや、建物の雰囲気を味わい、シャッターの閉まった潮音寺に向い手を合わせて帰ろうと身をひるがえした時、「ガラ、ガラ、ガラ」と音がしました。振り向くとシャッターが開いていきます。その瞬間、「これは奇跡だ」と思いました。

シャッターの隙間に2本の足が見えました。やがて中から、手招きをして「入って見ていきなさい」といっている様でした。中に入っても、まだ不思議な感じがしていました。多くの英霊のみなさんが私に味方したのだと思いました。

中に入って、名刺を戴きました。そこには李陽明とありました。手話で、ここを管理していて清掃にきた様でした。これは、すごくラッキーなことでした。私があと少しの時間、遅くても、早くてもこの偶然には出会わなかったのです。良いことは、しておくべきだと思いました。お陰で1階の写真などや仏前に手を合わせることができました。また、2階も見せてもらい、お賽銭をいれて、ここでもお参りが出来ました。掃除をしていた李さんにお礼を言って外に出ました。

外は来た時と同じように、南国、熱帯の太陽がまぶしく輝いていました。バシー海峡を見下ろす丘の前の海岸には、当時たくさんのご遺体が流れ着き、地元の方々は丁寧にこの丘に埋葬して下さったと聞いています。

この海辺は、今では台湾の若者たちの海水浴場になっています。海側からは、楽しそうな歓声が聞え、道路に停めた車から、水着姿の家族づれが、今まさに海岸に降りてゆくのをみました。

私は、先ほど来た道を自転車で引き返しました。

第19次 団員の声(感想文)全28件

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