団員の声(感想文)

日本を取り戻すための行動を小さく始めるとは

第七班 班長 福田章枝

私は第19次(平成29年)台湾慰霊訪問の旅(以下、慰霊訪問の旅とする)に参加しました。昨年に引き続き2回目です。昨年は初めての参加でしたので、旅の道中でいただく学習資料に首引きで、小菅団長の解説を集中して聞くということで、他のことには全く余裕がありませんでした。今年は、改めて日本国家の一員として、わずかでも踏み出さねばならないということをこの旅において決意した次第です。

私たちは日頃、自分の先祖をはじめお世話になった方々の墓前にお参りをする習慣を持っています。しかし、そうでありながら日本国家を護るために「国家の存亡を賭けて日本民族が、欧米諸国民族と戦い、敗れたとはいえ300万余の人々が命を散し護りぬいた国」「この日本民族の中には、台湾籍の軍人軍属、3万有余名の方々が含まれている事実」(陳恵美著『台湾人従軍看護婦追想記―すみれの花が咲いた頃』展転社)を近年まで私は認知していなかったのです。

この旅の学習資料にあるように昭和20年の敗戦後、野沢ご夫妻の台湾全島を巡る収骨行脚が昭和35年まで繋がって、翌年当時の日本大使館の斡旋により台北市の中和禅寺境内、台中市の宝覚禅寺境内、高雄市覆鼎金公墓の3ヶ所に分けて合葬することになりました。台湾との国交が断たれて以来、日本国による慰霊祭は今はないのです。そういう状況にありながらも日本人の物故者を大切にしておられる台湾の方々に直に接して日本精神ここにありということを実感したのです。

3日目の訪問の旅の焦点は、台湾最南端の鵝鑾鼻岬での献花式と潮音寺での慰霊式でした。鵝鑾鼻岬はバシー海峡と太平洋の接点です。私はこの時はじめてバシー海峡の海域で大東亜戦争中、推定25万の将兵が撃沈され、今もこの海底に御霊が眠っておられることを知ることになりました。ほぼ同じ頃、11月19日に潮音寺でご遺族の方々60名が第3回慰霊祭に参加されていることをインターネットの記事を通して知りました。

この潮音寺は昭和19年、玉津丸でフィリピンに向う途中、米軍により撃沈され12日間も漂流の末、本島人の手厚い介抱によって奇跡的に蘇ったという中嶋秀次氏が私財を投じて昭和56年に建立したといわれています。私はここに人知では計り知ることのできない不思議な神の摂理を感じます。

2回目の慰霊訪問の旅を通して考えたことは、日本を取り戻すための行動を具体的に小さく始めるということです。1回目の慰霊訪問の旅では、お賽銭箱が全く目につきませんでした。お賽銭箱は日本にしかないのかもしれないなどと思っていました。それでも絵葉書をたくさん買うことで協力したことになるかも知れないと、今思えば稚拙でした。今回はお賽銭箱を探したこともありますが、自然に捧げることができ感謝しています。次に参加が許されるなら、もっと計画的に捧げることができるように準備をしたいと考えています。

次に英霊を称えることです。戦後72年を経った今、戦争体験者ならびにご遺族の方々は、やがて天に召されることを私たちは自覚しなければなりません。このことはいつも団長の小菅先生が私たちに諭されることです。幸いにして私の夫は日本の国益を守ることに忠実な考えの持ち主です。先ずは自分の子供たちや孫たちに英霊顕彰の意義を正しく伝えていきたい、このことを小さく始めようと思います。

この慰霊訪問の旅のもう一つの特徴は、台湾の方々と食事を共にする交流・歓迎・交歓会が持たれることです。昨年お会いした方々に再会できたことを心から感謝しています。自分でも驚くほどに不思議としっかり記憶をしています。昨年、従軍看護婦として献身された陳恵美氏にお会いして著書をいただきました。この著書の挿絵を描かれた東京在住の太宰信明氏に、去る10月に御目にかかり戦争体験等のお話を直接伺う機会を得ました。平和の尊さを語られる言葉に大変重みがありました。また、今年は同じテーブルの方のなかに日本語を勉強中であるという方が流暢に日本語を話され、大変驚きました。先日はお手紙と写真を送って下さいました。このように台湾の方はとても親日的です。台湾の方が日本を旅される時は私もお招きをしたいと願っています。

台湾特別講演会において例年基調講演をされる文明史家・和漢両棲ノンフィクション作家の黄文雄先生は、今年も四日目の歓迎夕食会の席に多くの台湾の方はもとより、米国等からも仲間をお招きされ、たいへん意義深い時を分かち合うことができました。これらの交流会・歓迎会・交歓会を通して台湾の方々は非常にエネルギッシュであると感じました。あのエネルギッシュさはいったいどこから来るのでしょうか…。

第19次 団員の声(感想文)全28件

訪問次で探す

お問い合わせお問合せ