団員の声(感想文)

その場所は慰霊祭を行うに最もふさわしい場所だった

第五班 岩本班 前原照美

昨年に引き続き2回目の参加にしてさらなる新しい発見と感動があった。

それは「追遠亭」である。宝覚寺での慰霊祭が終わった後のこと、「あの奥へ行ってもいいよ」とのガイドの簡さんに促されて「霊安故郷」碑の後方へ足を踏みこんだ時、「鄭春河」の名前が目に飛び込んできた。ああ、この方は『台湾人元志願兵と大東亜戦争』の著者だ。遠い見知らぬ外国で知人に出会ったようなうれしさを覚えた。その名前は「追遠亭銘記」の碑に建立者の1人として刻まれていた。

「追遠亭」は伊庭野政夫氏、小堀桂一郎氏ら10人が発起人となって結成した「台湾出身元日本人軍人軍属感謝表明期成会」の募金をもとにして、台湾の戦友会と遺族連合会により平成9年に建立されたものであった。まさに日本と台湾の協力で実現したものである。

集合写真を撮るまでの僅かな時間ではあったが刻まれた文字を追いつつ立ち去り難い思いであった。

鄭氏のことが気になり帰ってから本を読み返してみた。そこには大東亜戦争で共に戦い散華された日本と台湾の英霊に対する純粋な思い、教育勅語の薫陶による日本精神、軍人精神が半世紀を経た今も彼の心に脈々と生き続けていること、祖国愛を失った軟弱精神の日本同胞に対する愛の鞭、更には将来を担う日本の大学生を毎年夏に台湾へ呼んで研修している事等が記されている。

特に細川首相が大東亜戦争を「侵略戦争であり間違った戦争であった」と断定し謝罪したことに対して怒り心頭。これは英霊への冒涜であり200万の英霊は犬死となり、生き残りの我々は負け犬となったのかと。鄭氏はまさに日本人の中の日本人だ。戦後の日本の教育を経験しなかったために、台湾に明治の美しい日本精神がそのまま残った。鄭氏のような方達が生き残ったからこそ追遠亭の日台協力が可能だったと思う。鄭氏は418倍もの競争を乗りこえて血書嘆願をして採用された志願兵だった。

日台の協力によるものは追遠亭だけではない。台湾出身の元日本軍人軍属3万3千余柱を祀るあの「霊安故郷」碑の右傍らにある「和平英魂観音亭」も有末精三陸軍中将の筆になる。

してみれば、あの慰霊祭が行われる場所の碑のことごとくが日本と台湾の協力の賜。

また宝覚寺の他の一角には1万4千柱の日本人の遺骨安置所もある。

それにもまして宝覚寺自体が日本の寺で、その寺全体が台湾の方々によってコンクリートでがっちりと覆い保護されている。この姿こそ日本と台湾の絆の象徴ではないか。

そう考えてみると、宝覚寺とその境内は何か特別のものに見えてくる。特に慰霊祭が行われるあの場所は。そう、その場所は慰霊祭を行うに最もふさわしい場所だったのだ。そのことに改めて気付かされ感動さえ覚える。今年の慰霊祭でまっ青な空に堂々とはためいていた3本の旗が今も目に浮ぶ。台湾旗、海軍旗、日の丸のはためきは英霊の喜びの声にもきこえる。

塩水小学校の印象は去年より強い。何といっても若い女性校長の熱意に感服。お揃いの服の可愛い児童達や力強い龍踊りの小学生達の精一杯の歓迎も全て校長先生の指導の賜。お茶を入れ接待して下さる若い先生の姿も去年より多いように感じた。驚いたことに校長先生のお話では「塩水五宝」の1つに鳥居、神社が入っていた。更に日本へ行った時買ってきたと小さな二宮尊徳像が披露された。また二宮尊徳の本を先生方に配っているとのこと。ここに戦前の日本の美しい道徳教育が生きていると驚かされ感動を覚えた。今、日本にこんな教育がなされている学校があるだろうか。塩水神社の前で去年同様ひと言書かせてもらったが、私は思わず「校長先生の熱意に感動」と書いてしまった。説明会場へ向う途中、突然1人の小学生が近寄ってきて手を差し出した。一瞬戸惑ったが名刺を求めていることが分ったので一枚渡すと次々とやってくる。10枚位渡したと思うが、これが先生の指導かその意図は分らない。しかしこれが将来の日台の絆の新たな芽となる事を期待したい。

もうひとつ心に残ったのは、団員松俵氏の新しい保安堂への龍柱2本の寄贈だ。大きな石柱で彫刻も着々と進んでいた。壁には「龍柱の沿革」と「感謝状」が立派な額に掲げられ、更には訪問団の存在が文字となって同じく額に掲げられていた。12次にわたる小菅団長の努力の一端が報われたのではと団員の一人として誇らしくもありうれしかった。

来年も参加したいと思う。小菅団長御夫妻をはじめ事務局の皆様、同行の皆様には大変お世話になりありがとうございました。

第12次 団員の声(感想文)全26件

訪問次で探す

お問い合わせお問合せ