団員の声(感想文)

日本語世代の方はかけがえのない日本の宝です

第三班 班長 原田泰宏

慰霊訪問の旅は一昨年に続き、今回が2回目となります。初回は、駅や訪問した所で日本語で話しかけお話したことが印象に残っております。その方々は先の戦争に負けるまで日本人として生きてこられた日本語世代の方々で、『私は台湾に残った日本人、あなた方は帰った日本人』と懐かしく話し掛けられ、日本人であったことを今も誇りに思っていると言われていました。また、64~5年経った今も日本語を忘れず流暢に話されています。会話ばかりでなく、漢字・ひらがな・カタカナを日本人同様に書かれることが、手紙のやり取りで分かりました。語彙などは今の日本人以上に豊富でその当時の教育水準の高さを感じさせるものでした。今回の訪問では、前回お会いした方々や手紙をやり取りした方に再会する楽しみや、新たな出会いもあり、今回もまた非常に充実した旅となりました。慰霊訪問の旅は、観光地廻りは一切ない、朝は7時集合・夕食は10時になることもあるハードスケジュール、ほとんどが台湾の方との昼食会や夕食会で気が抜けない(私はいろんな方とお会いする楽しみの方が勝っておりました。他の方も会食の終わりには打ち解けておられました)といった一般的な旅とは異なりますが、帰国の途に着くや否や、また行きたい思いが強くなってくる有意義な旅です。

さて、今までの旅で出会った台湾の日本語世代の方々からは、『日本の御蔭で今の台湾はある』『厳しくとも愛情ある先生の指導の御蔭で自分たちがある』『もっと自信をもちなさい』等のお礼や温かい励ましの言葉をいただきます。今回の旅で一緒に写った写真をお送りしましたら、すべての方からお礼の手紙やクリスマス・年賀のカードが送られるなど非常に礼儀正しいです。また、ある地域ではお世話になった日本人をいまだに祀ったり、慰霊をされています。これらは台湾の方のすばらしさであるわけですが、戦前の日本人・文化をも反映しているのではないかと思うようになりました。今、戦後日本では戦前日本は周辺諸国に対し悪いことをしてきたと教育され、マスコミや近隣諸国からの偏向情報がたれ流されていますが、台湾ではまったく違います。どちらが真実でしょうか。その時代を生きてきた生き証人である日本語世代の方の話や台湾で行われていることを日本国民が知れば、戦後の歴史観のおかしさに気付きびっくりするのではないでしょうか。それは日本の誇りを取り戻すきっかけになると考えます。

私は、日本語世代の方々は日本を救い台湾との絆を築くために欠くことのできない日本の宝と思えてなりません。しかし、日本語世代の方々は80歳代以上になっておられます。時間の猶予はありません。早急に、日本語世代の方々の思いを直接今の日本人に知らしめることはできないかと考えているところです。

次に、今回の旅の成果とでも申しましょうか、特に印象に残った体験を二つご紹介したいと思います。

【体験一】 
〈たった1人になりながらも戦後65年間も日本人上司の慰霊を続けている劉さん〉
獅頭山参拝はスケジュールにありませんでしたが、どうしてもと請われて立ち寄ることになったところです。戦後65年間も元上司である広枝警部を慰霊されている劉さんのお話をお聞きしました。今は同僚の方も亡くなられ、劉さんたった1人で慰霊をされているとのことです。それも体調を壊され看護師を帯同されて行われていました。ここで劉さんのご説明が格調高い日本語で、当時10代の青年がこのような日本語を使っていたのか、それを忘れずに65年も使っておられることに感動しました。更に感動は日本に帰ってからもありました。それは獅頭山で劉さん、林さん、私と一緒に撮りました写真をお送りしたことに関して次のようなお礼の葉書をいただいたことです。ご高齢にもかかわらず、小さな字でびっしりと書かれており、病弱で弱っておられるお体で必死にお書きになったであろうと想像すると胸が熱くなってきました。文面は、まさに日本人の筆跡で、漢字と仮名で丁寧に書かれておりました。たった1人になられても65年間も慰霊を続けておられる劉さんの行いに感動するとともに、そのようにさせる立派な日本人がいたこと、台湾の方に対する戦前の日本教育の水準の高さなどに感心しました。お手紙を活字にしますと真値が半減しますが、内容を知っていただきたいのでご紹介します。

◇◇劉さんからの手紙◇◇
『お礼を申し遅れまして申し訳ありません。私は御一行様が大事な旅程を割かれて獅頭山詣にいらした折に何のお構いもなく失礼さしていただいた元広枝警部の部下、劉維添と申す者です。今度御一行様の心のこもったお詣りに只管頭が下がり胸が熱くお礼の言葉を知りませんでした。早くから御一行様にお礼を申す筈でしたが、老人故に遂ひ延び延びになりましてすみません。また台北の林阿勇さんを通して今生の記念とも云うべき写真をお送り下され嬉しさで一杯です。改めてお礼申しあげます。故広枝警部は大和魂を発露し人道主義に徹した長官でした。故事は多々ありますが短時間でしたので報告出来ませんでしたが、又機がありましたら語らせていただきます。今回簡単ですがお詫び方々お礼まで。日本の益々の御隆運と皆様方の御健勝をお祈りしています。
台湾苗栗懸南庄郷東村中正路七二 劉維添』

【補足】
(黄文雄氏著「捏造された日本史」より引用)
広枝警部は1905年に神奈川県小田原市に生まれ、やがて台湾に渡って総督府の巡査になり、警部にまで昇進した人物だった。昭和18年末、海軍巡査隊長に任命され、2000人の台湾人志願兵や軍属を連れ、マニラに渡り、巡査隊の訓練と治安維持の任務にあたった。しかし、昭和20年2月、米軍上陸の情報が伝えられると、巡査隊はフィリピン派遣軍軍司令部から手榴弾が配られ、全員玉砕が命令された。しかし、広枝は苦慮したあげく、台湾人の命を保障するようひそかに米軍と交渉し、2000人の隊員に向かってこう言った。

「諸君はよく国の為に戦ってきた。しかし、今ここで軍の命令どおり犬死する事はない。祖国台湾には諸君らの生還を心から願っている家族が待っているのだ。私は日本人だから責任はすべて私がとる。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ」

一同、言葉もなくすすり泣いたという。広枝は昭和20年2月23日、拳銃で自決した。40歳だった。戦後、台湾人部下達は全員台湾に帰国した。昭和58年、小隊長を務めた劉維添はかつての隊長の自決の地を訪れ、広枝隊長終焉の地の土を集め、茨城県に住むフミ未亡人の手にわたした。夫人も今は鬼籍の人となり、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人々の手によって、獅頭山の勧化堂に祀られた。

【体験二】
〈台湾との尖閣問題で戦争を食い止めた台日文化経済協会鄭会長〉
台湾の親日家がいかに日本のために尽くされているかを示す事例として、旅の最終日の「台日文化経済協会様による歓迎の昼食会」で隣り合わせた鄭会長からお聞きしたお話をご紹介したいと思います。平成20年6月10日尖閣諸島・魚釣島付近の日本領海内で、台湾の遊漁船「連合号」と海上保安庁の巡視船「こしき」が衝突し、連合号が沈没した事故がありました。台湾の政府筋は「最後の手段として開戦も排除しない」と豪語していたそうです。そこで鄭会長は、高校の後輩でもある馬総統に対して、日台関係についてよく説明し、『賠償金問題で片付けなさい』と諭され大きな問題にはなりませんでした。平成22年9月の中国との尖閣問題と比較すると、雲泥の差があります。日台の良好関係の維持に尽くされている方々がおられることを忘れず、大切にしていかなければならないと思ったところでした。

長々と取り留めのない駄文を書きまして恐縮しております。最後に、この旅を企画、運営されておられる小菅団長、事務局ほかの皆様のご尽力に敬意を捧げ、また厚くお礼を申し上げます。ずっと続けていただきたいとお願いいたします。

追記
旅の初日、夕食会において『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい』の著書がある蔡焜燦氏のサプライズご挨拶をコーディネートしていただきました黄敏慧さんは、小林よしのり著『本家ゴーマニズム宣言』の最終章に描かれておりますので、興味がある方はご覧ください。

第12次 団員の声(感想文)全26件

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