団員の声(感想文)

真実で尊い行動は必ず継続される

副団長 永田昌巳

第12次日華(台)親善友好慰霊訪問団に参加した。昨年に引き続き2回目の台湾訪問である。昨年の訪台では50年に及ぶ日本の領台政策の歴史について全くの無知であり、台湾が親日国家であることすら少々の疑問を持っての訪問であった。

しかし実際、台湾の地を踏んで初めて日台の永い歴史の真実に触れ、そこに誇りある日本魂の存在を確かめることが出来た。領台50年、大東亜戦争終結後65年を経た今日、日本精神が何故台湾で不滅なのか問わざるをえない。それは大東亜戦争を共に戦い散華した日台の同胞に対しての敬虔なる祈りの中に見出せる。

これも偏に領台時代の教育と11年に及ぶ永きにわたっての日台交流の成果である。

この尊い日台の家族(兄弟)交流の歩みについて、小菅団長は「幾多の万難を排しての国家的・民族的課題を担った11年であった」と回顧され、12年目の出発にあたり、皆様と一緒に3万3千余柱の英霊を顕彰するため「海の彼方のニッポン・台湾を訪問する」と崇高で尊い決意をされた。私にとっても今回の第12次訪問団の参加は日本人としての責任の一端を背負っての参加であった。

訪問の初日は旅行社の不手際でわが郷土の偉人、明石元二郎台湾総督の墓参りが出来なかった。ご令孫の明石元紹先生を招いての特別講演会にも出席し、心待ちの墓参りだっただけに残念であった。

台北の六氏先生の墓参りも私にとっては初めてであり、心打たれるものであった。日本統治時代の教育がここまで台湾を変えたのかと思うと感無量であった。それに引き換え今日の日本の自虐・偏向教育の現状をみる時やるせなさを感ぜずにはいられない。

台湾中日海交協会会長、胡順来氏はこう語っている「400年前の台湾国はフィリッピンと同じ一国だった。それがスペイン、オランダ、イギリス、シナ、日本などの統治下になったが、その中で日本だけが、台湾人に教育を施し、台湾の大建設を敢行した。東南アジアの国々を見よ、どこの植民地でも教育はしていない。日本は絶対侵略主義ではない。」と喝破され、今台湾が豊かになったのも「日本が施した教育勅語のお陰」と断言されている。

日本が台湾統治を始めた明治28年(1895)真っ先に行ったのが教育への取り組みであった。優秀な教師が日本から台湾へ派遣された。そして台北・芝山の地で芝山巌学堂として台湾人への教育が始まった。

私たちが到着した芝山公園はもうすっかり暗くなり、小高い丘は森に囲まれ、足元はおぼつかなかった。石段を登りつめるとそこに街燈に照らされ浮かび上がった六士先生の墓をしっかりと確かめることが出来た。岩盤の上に建てられた墓に手を合わせると脳裏がいたむ。

当時、新年祝賀のため総督府に向かった六人の日本人先生は日本統治に反対する暴徒により惨殺された。死をも覚悟して授業を続け「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と台湾の教育に身も心も打ち込んだ六士先生の墓前に立つ時、畏敬の念におののかざるを得ない。

この墓は芝山巌学堂百年祭を記念して平成7年(1995)1月1日に新たに建てられ、今もこの日には台湾の全ての学校で一斉に黙祷を捧げるという。台湾教育のメッカで日本教育を受けたる者の何とも崇高なる日本魂・芝山巌精神であろうか。

台湾各地を訪問し又、慰霊祭に参加して思われることは台湾軍人軍属の方々の高齢化による参加及び継続についてである。宝覚寺における慰霊祭を取り仕切っておられる台湾台日海交会会長の林徳華氏も原台湾人元日本兵軍人軍属戦没者3万3千余柱の秋季慰霊祭への参加者は各地の軍属出身が多く、皆高齢のため病弱で参加できないものが多くなり、今後が心配だと話されている。

このことに関し、本年も来賓として参列された元台北駐日大使、許世楷先生は挨拶の中で、今回12次を数える小菅団長以下慰霊訪問団の尊さに敬意を表されたあと、年々歳を重ね高齢化する実行委員会の今後を心配され、この尊い慰霊祭を日本と台湾で守っていくため、私が知っているいくつかの若いグループに参加を呼びかけていることに触れられた。この日も台湾の青年たちが揃いのジャンパー姿で世話をしている姿が目を引いた。又、日本人墓地での慰霊式では団長の心遣いで居合わせた、一般日本人旅行者にも線香がわたされ、線香をあげ手を合わせる姿を見る時、心は和む。きっといい思い出として日本に持って帰るだろう。真実で尊い行動は必ず継続されると信ずる。このような光景は訪問した塩水小学校をはじめ、保安堂、飛虎将軍廟、烏来の地、中華民國外交部など行く先々で感じられた。

第12次を迎え第2ステージに上った今、我々が担う慰霊による民間外交は日台両国の絆をしっかりと築くと同時に、又、英霊に報いることであると強く自覚した訪台であった。

第12次 団員の声(感想文)全26件

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