団員の声(感想文)

第21次台湾慰霊訪問団に参加して

副団長 富原浩

今回は小菅亥三郎団長が逝去されて、初めての慰霊訪問だった。

不安がよぎった。果たして例年のように参加応募があるだろうか。また、例年通り上手くいくだろうか。気になるところであった。

だが、その心配は余計だった。団長代行の原田さんと田口さんが、リーダーシップを発揮されて、慰霊の旅を見事にやりこなしてくれた。実に有難い事だった。

だが、台湾側にもいくつかの変化があった。

例年ガイドをして頂いていた簡添宗さんが亡くなられたことはとても残念だった。彼は大の日本通だった。生きた歴史の語り手だった。

台湾海交会会員の中にもお顔が見えない人もいた。変化は確かにあった、がしかし大方において例年以上に歓迎していただいた。私たちはこれまでにもまして、旧知の仲を温めた。

台湾慰霊訪問の主な目的は、台中にある宝覚寺である。

11月25日、初めに日本人遺骨安置所、そして次に原台湾人元軍人軍属の大慰霊祭である。

台湾戦友会の方々とそのご遺族の主催で行われる。そして我々が式に参列をする。その時は、実に台湾の方々へのお礼と、心からの感謝の気持ちでいっぱいになる。

私には心に残る出来事があります。それをここに書いておこうと思います。

今から6年前の「第16次台湾慰霊訪問の旅」が私の初参加だった。その時も台湾の南、屏東縣の坊寮にある東龍宮を訪問した。小菅団長は、一振りの日本刀を奉納した。その刀を奉納する時、団長は頭の上で、鞘から刀を抜いて見せてくれた。それはピカッと光った。再び鞘に戻しもう一度高く掲げて奉納したのであった。私にとって、これは不思議な光景であり強く心に残っていた。

この東龍宮は日本人の「田中綱常」将軍のために建立され、日本人が祀られている。この宮は二階建てで、2階に宮があり、1階は宝物殿になっている。宝物殿の入り口正面から真っすぐの奥に一振りの日本刀があった。「あの時の刀だ!」ガラスケースの中の刀に私の目は釘付けになった。この日本刀を見たとたん急に胸が熱くなった。目に涙が滲んで来た。

この夏7月24日に逝去した小菅団長を思い出したからである。小菅団長がいつもの笑顔で握手を求める面影が脳裏に蘇ったのだ。小菅団長の手は柔らかくて、温もりのある手だった。もちろん、団長が逝去されて初めての慰霊訪問である。終始団長の面影が付いてまわっている。だけどガラスケースに入っているこの刀を見た瞬間は格別だった。この日本刀には、忘れえない小菅団長の思い出がある。

私はこの第16次慰霊訪問の旅に初めて参加している。平成26年だった。台湾は何度か旅行で訪れたことはあったが、この時は私が全く知らない台湾を見た。慰霊訪問をするお寺やお宮には、ほぼ日本人が祀られている。その時の驚きと感動は今でも忘れられないでいる。

一つは、戦前の日本の心と姿が台湾で生きていることだった。いま一つは、小菅亥三郎という人物に会えた驚きだった。今までこのような男に会ったことが無いという強い印象だった。大きな体に白い革靴、真っ白なズボンと半袖シャツ、そして大きな顔に白い海軍帽子をかぶっていた、全身が真っ白だった。

小菅団長は南の太陽に照らされて、眩しいほどに輝いていた、それが驚きだった。小菅団長は日本人の魂を持ち、そして本来の日本を取り返すことに生涯を捧げた無双の人と思っている。隅々まで鋭く思いやりがあり、気配りの人だった。

私は初回の台湾訪問で小菅先生を知って以来、出来るだけ福岡に行き小菅団長のお人柄に触れ、少しでも学ぼうとした。そしてお会いする度に何かを少ずつ学んだ。それは歴史であり、人の思想であり、愛国心や生き方だった。小菅先生の周りに集まる人は、みんな先生の影響を受けている。私達は小菅先生の遺志を引き継ぎ日本を守っていかなければならない、これが小菅亥三郎先生の遺志だと思っている。

最後にこの度参加された団員の皆さんに心より感謝申し上げます。また、裏方でお世話をして下さった九州不動産専門学院の方々、ツーリストの皆様、多くの支援者の皆様、特に毎年台湾で盛大な夕食会を開いて下さる黄文雄先生には厚く御礼を申し上げます。そしてお見送りとお出迎えをしていただいた、台北駐福岡経済文化辦事處の陳處長ご夫妻にお礼を申し上げます。そして今回は見送り側に回っていただいた九州不動産専門学院代表の、小菅団長の奥様、有難う御座いました。心より感謝を申し上げます。また、総勢49名の中で、沖縄からは9名の参加があり、皆様にお礼申し上げます。私一人の参加から、これまでで一番多い人数でした。

本当はその事を「団長、沖縄からは9名の参加です」と直接小菅亥三郎団長に報告したかった。

第21次 団員の声(感想文)全26件

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