団員の声(感想文)

芝山巌事件と六士先生 ― 日本を映す鏡 台灣

団長代行 木村秀人

私たちは普段意識して日本人として生きるわけではない。日本の中でその文化と歴史に包まれて生きている。「日本人として」を意識するのは、そう反応せざるを得ない特別な事情が起こった時である。

明治になって生活は藩の中から日本に広がった。意識も同じである。明治維新からそれまでになかった日本と日本人の物語が始まる。その経緯は、五箇条の御誓文「我國未曾有ノ變革ヲ為サン」の通り、毎日が大変で、その大変を重ねて日本人となり、その大変は国外に及び日清戦争となる。

台湾において、その日本と日本人の物語は明治28年から本格的に始まる。日本を渡台した日本人が体現していくのである。その「日本」を見ていくのは台湾の人々である。だから、その物語は内地では見られないものとなった。

その最初の物語が芝山巌で起こった。

明治29年元旦、台北芝山巌の地で、6人の日本人教師と1人の用務員が100名余のゲリラに襲われて惨殺された。芝山巌事件である。

楫取道明(39歳 山口県)・関口長太郎(38歳 愛知県)・中島長吉(26歳 群馬県)・桂金太郎(28歳 東京府)・井原順之助(25歳 山口県)・平井数馬(19歳 熊本県)・用務員 小林清吉(38歳)

日清戦争明治17年(1894)8月開戦、翌28年4月17日下関講和条約締結。講和条約により台湾は日本領となり、初代台湾総督樺山資紀と共に、「教育は最優先課題なり」として7人の先生が6月17日渡台、7月16日芝山巌の蕙濟宮を借り受けて学堂を開設。しかし、翌明治29年(1896)正月元旦、抗日ゲリラの襲撃を受け6人が惨殺される。台湾に渡って半年もたたぬ間の事件である。何故これで芝山巌が「台湾教育の聖地」となり、終戦時昭和20年(1945)台湾の識字率が、シナ本土が及びもつかぬ、92.5%に達したのか。

5ヶ月余の日本語教育活動である。短時日の教育活動によって偉大な成果を残した例は、「青年よ、大志を抱け」のクラーク博士に見られる。明治9年札幌農学校8ヶ月間寝食を共にする教育によって、内村鑑三、新渡戸稲造ら24名の東京英語学校(第一高等学校の前身)の出身者たちが、近代日本の各方面に、名を刻む活躍をした。

芝山巌は、事情を異にする。

雪を暖かい部屋から窓の外にみるのと同じように、先人たちの物語を見ては、日本人にはなれない。幕末維新以来、大変な時代を生き抜いてきた智慧と勇気は学べないのである。私たちは今もなお日本人として戦っている。生きるとはそういうことだろう。日本人として生き、日本人として人生を完結する。これは、私たち日本人の特権である。それだけの歴史と文化が、私たちにはあるのだ。だから、その時その場所に行ってみよう。自分がどんなふうに思うか、自分をどんなふうに感じるか。先人たちの物語を読むのではなく、物語の中に入るのである。

芝山巌に教育活動を始めた日本人教師たちは、その地で、台湾人が初めて会う日本人であった。日本も日本人もどんなものか台湾人は知らない。

他方、日本人といっても、28年前は藩で生きていたものである。その藩意識が取り払われ、幕末維新の若者たちの意識の底に日本が横たわり、眼は世界を見、想いは世界にあふれる。彼らが維新以来の大変をくぐりぬけて日本人という力と情熱となり、ついに国からあふれ出て朝鮮で清国に勝った。

その力と情熱の日本が台湾を得て、日本を試されることになる。彫刻家が木を得て、どんな作品を生み出すか、その力を試されるのに似ている。彼らの教育活動とその最期によって、日本人というもの、日本というものが台湾に最初に結晶した。自分は自分でみることはできない。鏡に写すしかない。台湾という鏡に日本が映るのである。日本と台湾の魂の交流の最初は恐らく次のようであったろう。

6人のひとり平井数馬(19歳 熊本県出身)は、5ヵ月余の日本語教育というこの短時日のうちに『日台会話』の編集に従事し完成させた。日々が現地の人々に溶け込み、ひたすらに台湾語を学び、日本語を教える生活だったのであろう。恐らく、その日覚えた現地語はその日のうちに数知れぬ練習と共に習得され、翌日はこれを使い、さらに新しい表現を覚え、学ぶ情熱を熱くし日本語を教えたのであろう。そういう日本人教師に台湾の若者が会う。初めて経験する「日本」との遭遇である。と同時に、恐らくは、異国のもの同志が、その言語の相互理解を通して生まれ出る信頼と友情を培い合う日々だったのであろう。

学生は、はじめは6名、9月末21名となった。

学生たちは、清朝をして「化外の地」と言わしめた台湾の土語を熱心に学ぶ日本人教師たちに言い知れぬ敬意を抱いたのであろう。台湾の土語を学ぶなど、清朝の役人がすることではないのである。現地語の研究は、また、民俗の研究でもある。「身に寸鉄を帯びずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事はできない」。この日本人たちの教育活動を通して或る普遍的な人間性の確認が行われた。信に値するもの、これである。台湾に教育の種が蒔かれたのである。

教育の種が蒔かれたと同時に、日本人教師たちに守るべきものができた。台湾は新しき日本である。台湾の学生たちは、この新しき日本の将来の土台である。日本人教師たちには、既に守るべきものができていたのである。

そして、下関講和条約から8ヵ月後、渡台後5ヶ月、日本人としての覚悟を試される。彼らが全国から集まるにあたっては、講和条約後2ヵ月のうちに、伊沢修二(文部省学務部長心得)の樺山総督への進言(教育事業最優先)、学務部創設、教師募集、応募、決定、渡台準備の後、初めて台湾の地を踏むという慌しさである。しかもまだ治安は安定していない。だがこの間の事情に応じる覚悟は十分にできていたのであろう。「もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」。維新以来、近代国家建設の漲る力の迸りとも言えようか。

その朝、彼らの身中に満ちていたのは、烈々たる気力であった。その気力無くして100余のゲリラに素手で立ち向かうことは出来ない。そしてその見事な最期は見られていたはずである。日本人教師への信頼は失せなかったからである。日本人とはこういうものであると、台湾に結晶したからである。この事件は彼ら六士先生に続くものを断つことはなかった。台湾教育の根が台湾の大地に張り始めたのだ。

人が決死の覚悟をするのは、あたたかいものがあるからであり、守るべきものがあるからだろう。

教育は、子供のためだけではできない。日本が要る。愛情と大義が要る。この二つがあって、教育は命をかけるに値するものとなった。

明治から新しく始まった物語に貫通する愛と大義は、また別の場面でも体現された。

昭和20年4月、沖縄戦に台湾からも多数の陸軍の特攻機が出撃した。戦果確認の護衛機が、戦果報告の後、自爆した仲間の後を追って「命令されざる特攻」をする。操縦を教えた教官だったのであろう。

インドネシアでは、オランダからの独立戦争に多くの日本軍将兵が参加して、戦死した。その数2000名を超える。インドネシアの若者を訓練した教官たちの多くが彼らと共に戦った、ということだろう。

六士先生に見られた日本と日本人の物語を、ここにまた見る思いがする。

芝山巌に私たちが行くのは、そこに結晶した「日本と日本人」に「日本人として」の意味を確かめつつ、私たちが日本人の物語を作り続ける力を得るためにもあると、今回つくづくと思った次第である。

第16次 団員の声(感想文)全25件

訪問次で探す

お問い合わせお問合せ