団員の声(感想文)

継続は力なり―慰霊訪問にマンネリなし―

第六班 柏田班 岩本宣善

昨年、一昨年とパスしたが、通算5回目のリピーターとして参加した。訪問先は当然殆ど同じ場所で普通ならマンネリを恐れる所である。3万3千のご英霊、1年間待っている台湾の同胞、相手は同じである。

しかし、小生はマンネリのマの字も感じなかった。そのことを幾つか書く。
(1)高雄市政府訪問
第一種軍装の我々に対しスーツにノータイの李副市長、カジュアルシャツの張局長が対応されて保安堂落慶式、中曽根康弘の話、爆発事故義捐のお礼等、くだけた話をされた。小菅団長も答辞で、独身の陳菊市長は高雄市と結婚と当意即妙なジョークで応じ、初訪問ながら良い雰囲気だった。

(2)富安宮
昔一度行った所だが見違える程立派になっていた。霊能者(いたこ)が森川巡査の霊を呼び出したのはたまげた。村人の中には裸足の人もいた。決して豊かではない漁村の人達が誠意一杯カンパして義愛公を祀ってくれている。

(3)宝覚寺慰霊祭
台湾側のメンバーで杖を突いた方々がめっきり増えた。祭文奏上中に象徴的なことが起きた。前夜祭の宴席で会長や団長挨拶の最中に不規則発言をした89歳の老人が倒れて救急車を呼ぶ騒ぎが起きた。
団員中、看護士の資格を持った方が心臓マッサージをするのを目の当たりに見た。台日海交会にしても、良き後継会長を得た中日海交協会にしても高齢化と財政難が大変だろうなと忖度した。

(4)芝山巌六士先生の墓
ここでは木村団長代行が献花の後、六士先生に代わってあたかも霊能者の如く語られた。「我々は犠牲者ではない。子供たちの為に逃げることなく公に殉じた」。印象的であった。

(5)中華民國外交部
亜東太平洋司の郭副司長の対応が素晴らしかった。亜東協会時代にお目に掛かったことがある。優秀な官僚である。馬政権のことには触れず、ざっくばらんな話ぶりで決して話をそらさず対応された。従来、「現状維持が最良」と奥歯にものが挟まった口ぶりが多かったが、小生はこの方の対応に感動した。
名刺を交換しながら沖縄から参加された団員が「涙が出た」と言っておられたが同感である。「学校では国民党の反日教育、家に帰ると教育者だったおやじの教育勅語、お蔭でバランスの取れた人間になりましたが、この通り禿げました」「経済の為に大陸とは仲良くやっていきます。しかし油断はしません」映画のKANOに掛けて可能の駄洒落も天晴れであった。

(6)小菅団長の講話
毎度ながら行く先々で熱誠溢れる縁起解説をして頂いた。

(7)黄文雄先生
今までご著書は一杯読ませて頂いたが初めて著者本人にお会いした。

(8)ガイドの簡さん節
少し足を引きずっているが健在で嬉しかった。

(9)新竹濟化宮
台湾の靖国神社である。ここには霊璽ではなく位牌が整然と並んでいる。九段の靖國神社の『英霊の言の葉』の中の一節を思い出した。昭和23年6月戦犯として公務死された台湾出身軍属の遺書である。

「本職ハ台湾人デアル アルガ故ニ一身ヲ捧ゲ妻子ヲ犠牲ニシテ法廷ニ於テ最後ノ一線ヲ守リ ソシテ散ルノデアル 日本ノタメヲ思ッテ終始一貫ノ信念ヲ守ッテ戦ッタノデアル ソシテ国家ノ所属ガ変ッテモ本職ハ日本軍人トシテ死ンデ行キタイノデアル(中略)最後ノオ願ヒニ将来大日本帝國ガ復興セバドウカ本職ノ一子ヲ政府ニ於イテ日本教育ヲ恵ミ賜ラン事ヲオ願イ申シ上ゲマス」

我々はかかる同胞の心を忘れてはならない。

小生は馬齢を重ね満83と相なった。意欲は衰えてはいないが足腰はいかれて来た。厳しさが増す両岸関係を思う時(毎回参加の度に一期一会と思って来たが)今回が最後と思う。日台共に若い世代の方々に引き継がれ、この慰霊訪問活動が続くことを切に希望する。

実は羽田空港に向かう途中、横浜駅の階段で左足ふくらはぎに痙攣を起こし、この分では烏山頭ダム殉工碑や芝山巌の階段は無理かと諦めかけたが中村哲氏・松下美佳両氏に支えられて何とかパスせずに済んだ。松山空港には中村哲氏が呉さん共々出迎えて頂き、3機編隊を組んで林森公園に向かった。時間があったので初めて二・二八公園に立ち寄ることが出来た。

相部屋の中村哲氏にはもちろんご厄介を掛けた。たった2人の羽田組の相棒である松下美佳ちゃんとは肝胆相照らして話す時間を持てた。天候に恵まれ、事故・怪我・病気も無く貴いミッションを果たして帰国することが出来た。

添乗員の中村理恵子さん、ご苦労様でした。スタッフの皆様本当にお世話になりました。同志の皆様厚く御礼申し上げます。

最後に雲谷斉喧蝉の駄句をひとつ
赤し朱し台湾海峡冬落暉
蓬莱の佳人なつかし菊日和

第16次 団員の声(感想文)全25件

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