団員の声(感想文)

日本人が失っている大切な精神との出会い

第四班 班長 津留毅

この度、初めて第16次日華(台)親善友好慰霊訪問の旅に参加したことは、私にとってとても有意義で感動的なことでした。

初日の高砂義勇隊戦没英霊記念碑の慰霊式は、驚くことに地元の警察の方が険しい烏來の山道を車で先導してくれました。慰霊式では慰霊碑を守っている高砂族の方々と黙祷を捧げましたが、この様な秘境の山奥に住み、どの征服者にも決して服従しなかった誇り高き人達が、西欧列強による植民地支配からのアジアの解放という大義のために志願者が殺到したという事は、当時の日本人が如何に立派な人が多く、説得力があったかということだと思います。

弱小チームから出発して、甲子園に台湾旋風を巻き起こした映画『KANO』の近藤兵太郎監督は、日本人を含む3民族で構成された選手一人ひとりに「いいか、『球は霊(たま)なり』だ。精神をボールに込めろ。魂の入っていない野球はするな」と噛んで含めるように教えたそうです。私は近藤監督の指導した『球は霊(たま)なり』という言霊(ことだま)が『台湾は日本なり』と言っているように聞こえてなりません。

夜は、黄文雄先生による歓迎夕食会がありました。私のテーブルには、小菅団長や台湾統一地方選真っ只中の柯文哲選挙事務所の邱さんと蔡さん、それに元駐日大使の羅福全さんが奥様と一緒に着かれていました。柯文哲さんは、私達が慰霊訪問の旅から帰国した3日後の選挙の結果、見事に台北市長に当選し、国民党は歴史的大敗北を喫し、馬英九総統を党首辞任に追い込みました。私も小菅団長も「スタジオ日本 日曜討論番組」で「ひまわり学生運動」を応援し、馬総統が強引に推し進めようとした中国との「サービス貿易協定」を福岡の台湾留学生と一緒に阻止するために戦ったご縁で誠に感慨深いものがありました。また羅福全さんも素晴らしい方で、気が付くと歓談の最中、私達は大きな声で羅御夫妻と一緒に「うみゆかば」を歌っていました。日本では全く経験したことのない不思議な空間でした。

2日目は八田與一技師の烏山頭ダムと東龍宮、台湾支部長御夫妻による歓迎の夕食会です。烏山頭ダムには、映画『KANO』のダムが完成するシーンで登場した横断幕のセットがそのまま残されていました。烏山頭ダムで特に感動したことは、八田與一技師の業績もさることながら、奥様の外代樹さんの生き方でした。八田技師が昭和17年5月8日に亡くなられた後、日本が終戦を迎え、昭和20年8月31日に次男の康雄さんが学徒動員から帰ってきたのを見届けた9月1日、25年前の嘉南大圳工事の起工式と同じ日に、夫人は八田家の家紋入りの和服に裾が乱れないようにと、モンペを身に着けて遺書を遺しダムに身を投じ、夫の後を追われているのです。最近の日本人の中には、簡単に「武士道」という言葉を口にする人がいますが、そういう軽々しく言葉にしてはいけない厳粛さを感ぜずにはおれません。

東龍宮の田中将軍廟には、海の民のすばらしい系譜を感じ、この日の最後は黄明山支部長御夫妻と黄事務局長による温かいおもてなしを受けました。

3日目の保安堂の御神体となっていた「にっぽんぐんかん」には万国の旗が飾ってありましたが、そこに中国と韓国、北朝鮮の旗がないのには、思わず笑ってしまいました。それから、以前から1度は行ってみたいと思っていた飛虎将軍廟に行きお参りをすることができました。杉浦飛行兵曹長の年齢に興味を持った私は調べて驚きました。弱冠20歳で亡くなられております。13歳~14歳で入隊された最後の乙種予科練生だったそうです。兵曹長という階級は下士官の一番上の階級で、少尉候補に当るそうです。20歳で飛行兵曹長ということは、今の若者と比べてみても相当に立派な人だったのではないでしょうか。日本の撃墜王と呼ばれるエースパイロット達のほとんどが、下士官出身者だったことを思い出しました。

日本では、平成11年に入間基地を飛び立った自衛隊機が墜落し、飛行時間が数千時間にも及ぶベテランパイロット2名が殉職されるという事故がありました。自衛隊機は故障した際に、民家に墜落するのを避けるために高圧電線にぶつかり、殉職されたというのに、当時のマスコミは都内が停電したことばかりを強調し、自衛隊は憲法違反だといって攻撃しました。飛虎将軍のことを考えると今の日本が異常に見えてなりません。富安宮の森川巡査も本当に立派な日本人だと思います。そういう人達を神様として顕彰し、守ってくれている台湾人こそ心やさしい、真心を持った本当の日本人ではないでしょうか。

4日目の宝覚寺での台湾人元日本兵軍人軍属大慰霊祭では、台湾人元日本兵の方々のご高齢ではあるが、若々しい姿に驚きました。そして従軍看護婦だった陳惠美さんとも楽しく歓談させていただきました。台湾中日海交協会の林政徳さん達の歓迎昼食会も心から楽しめました。年に1度、慰霊訪問団に会うことを心待ちにしていることを林政徳さんのおもてなしから感じとられた女性団員の方が、目にいっぱい涙を浮かべて感謝されている姿が印象的でした。

5日目の芝山巌神社の六士先生のお墓にお参りした時、木村団長代行が、六士先生になって一人称で団員にメッセージを送られましたが、感動があって、それを伝えたくて伝えたくてしょうがないという境地であったということがよく分かりました。そういう高見でないととても「死して余榮あり、実に死に甲斐あり」という心境になれるものではありません。私はこの度、慰霊訪問団に参加して、日本人が失っている大切な精神と出会うことができて本当にありがたい経験をしました。

第16次 団員の声(感想文)全25件

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