団員の声(感想文)

6分6秒6を戦い抜いた英雄たちの物語り

副団長 小倉和彦

4年前の第12次訪問団には、Bプランで家内と次女を帯同しての参加でしたが、今回は4泊5日のAプランを選択し、社員と取引先企業経営者の3人での参加でした。

私が今回一番行きたかったのは、台南市にある「鎮安堂・飛虎将軍廟」で、杉浦兵曹長(戦死後少尉に昇進)の逸話を現地に於いて、是非とも見聞したいと考えたからです。

それは旅程3日目の11月24日、午後1時過ぎに高雄から到着した我々訪問団を静かに出迎えてくれた地元の方々との、誠に厳かな慰霊式から始まりました。

その折当日の飛虎将軍廟及び、又翌日の台中市宝覚寺での慰霊祭の為に、儀仗喇叭手として東京から馳せ参じた原知崇氏の一行が、正に海軍陸戦隊さながらの軍装でこの儀式を更に厳粛なものに設えて頂き、大変感謝したところです。

杉浦兵曹長の武勇伝は、車中で配布された学習資料や現地で頂いた冊子等に詳述されていますので、屋上屋根を重ねるような愚は避けますが、11月25日夜開催された「台日文化經濟協會主催の歓迎夕食会」冒頭での私のスピーチに反応した数人の方から、もっと詳細を聞きたいとのお言葉を頂きましたので、抜粋を引用紹介したいと存じます。

時系列的な事故の経過
平成11年(1999)11月22日13時2分、中川尋史二等空佐・門屋義廣三等空佐(階級は当時)が年次飛行の為、入間基地を出立する。2名共5000時間以上の飛行時間を有するベテランパイロットであった。13時36分、入間基地への帰投開始。13時38分、「コクピット・スモーク」。13時39分、「エマージェンシー(緊急事態)」。住宅密集地を避け、入間川河川敷へ向かう。13時42分30秒、「ベイルアウト」すでに機体はバランスを崩し、脱出に必要な高度・角度は確保できない状況だった。13時45分頃、墜落。この時、東京電力の27万5千ボルトの高圧送電線に接触、これを切断して墜落したため、埼玉県南部及び東京都西部を中心とする約80万世帯を停電、道路信号機や鉄道網を麻痺させる重大事故を捲起した。なお、送電線に接触しなかった場合、狭山大橋に激突し、死傷者が生じる可能性もあった。14時25分、鎮火。17時1分、送電復旧完了。

以上の事実に投稿者の憶測を交えた個人的感想
事故機T-33は最高速度が時速970km。エンジンに燃料の供給がなされなくなったと言うことを考え、少なく見積もってもエマージェンシーを宣言してからジャスト2分の間に機が推進したのは約30km。この2分間、「イニシャル」(滑走路延長線上に設定された飛行場上空への進入のための通過点)に直行しながらも、彼らは基地に辿り着けない時は河原に機を墜落させることを、先ず真っ先に考えていたものと思われます。

グーグルアースで入間基地とこの河川敷の位置関係を見るとよく判るのですが、事故機の進路、入間基地に向かう航路途中を横切る形で川があります。

落ち続ける鉄の塊となった事故機からのベイルアウトを最初に宣言したとき、眼下前方には、「事故機はうちの校舎の真上を通過していった」と校長先生が証言したという西武文理高校がありました。

高校の周りは整然と戸建ての並ぶ「ニュータウン」で、そのとき高度は360m。安全に射出する為の最低高度は300m。この時ぎりぎりの高度と「河原が見えた」という2点が、恐らく中川二佐をして最初のベイルアウト宣言をさせたものでしょう。

しかしこのとき入間川に対して機位は斜角をもっており、いま機を捨てれば河原にではなくその手前の文理高校か、あるいは川向こうの奥宮地区に墜落し、実際に最終的なベイルアウト後、わずか0.6秒後で無人の機は地表に激突しており、その間の機の推進距離は900mで「今はだめだ」と、中川二佐は瞬時にそう判断したのでしょう。

国会に提出された資料の事故機の航跡図を見ると、彼らが最初にマイナートラブルを宣言してから、機は東経139度24分5秒上をほぼまっすぐ降りてきています。

しかし、一度目の「ベイルアウト」を宣言してから、その航跡は(地図上ではごく僅かですが)左方に向かって振られているのです。彼等は13秒間、つまりこの最後の3kmで、機を完全に河原と平行に修正したのではないでしょうか。

そして必死の操縦で「このままならまっすぐ推進しても確実に河原に落ちる」角度に機を向けたとき、すでに安全射出に必要な高度は失われていました。

そして二度目の「ベイルアウト」を通報して後席の門屋三佐は7秒後、事故機が送電線に接触する寸前に脱出し、中川二佐は接触とほぼ同時、門屋三佐の2秒後に脱出しました。

門屋三佐のパラシュートは開傘せぬまま高度70mから地上に叩きつけられ死亡し、中川二佐は切断された電線の垂れ下がる送電線の真下に墜落して死亡していました。

異常を感じた事故機が報告の為に管制塔との通信を設定してから河原に墜落するまでの6分6秒6。中川二佐と門屋三佐はこの僅かな間に、死の危険を顧みず殉職されたのです。

狭山市は、ジョンソン基地といわれる米空軍基地があったときから航空機事故が絶えない処で、ジョンソン基地からは何と7件の事故で15名のパイロットが殉職しています。

日米が共同で入間を使用することになった後、自衛隊機の事故は4件。そのうちこの事故を含む3件は、パイロットが可能な限り機を安全な方向に誘導した形跡があるそうです。

このT-33「シューティング・スター」に乗って6分6秒6を戦い抜いた英雄たちの物語に多くの日本人が心打たれるのは、つまりそういうことだからなのでしょう。

参考 自衛隊員が入隊時に行う宣誓文
『私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託に応えることを誓います。』

殉職した2名とも11月24日付けで一階級特別昇任しました。自衛隊における教育内容・事故の目撃証言などから、中川二佐及び門屋三佐は近隣住民への被害を避けるべく、限界まで脱出しなかったものと確実視されています。

最終的に、乗員及び整備員に過失はなかったとして、平成14年(2002)9月に埼玉県警および狭山署は被疑者不詳のまま航空危険容疑で書類送検し、この時点までに2名ともさらに一階級特進し、それぞれ空将補・一等空佐となりました。
以上

まとめ
台南市にあった飛虎将軍の如き顕彰廟もなく、停電でアイスクリームが溶けたと誹られた彼らは一体誰のために死んだのか、元自衛官とすれば忸怩たる思いに責め苛まれます。台湾の人々が持つこの気風は嘗て日本が教育した成果やも知れず、そしてまた戦後の日本人が70年掛けて忘れ続けてきた大切なものと、もしや同根であるのかもしれません。

この度の慰霊訪問団旅行中、我々三名の非礼の数々は何卒ご寛容賜われば幸いです。
合掌

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