8月15日終戦記念日護国神社家族参拝

宮原泉

8月15日は私にとって一生忘れ得ぬ日であります。海軍のセーラー服を着て通信学校に入校した日であり、二年後には同じ日に終戦を迎えました。その間、同期生、そして同じ戦場にいた人達が護国の桜として散って逝きました。

私はわずか2年の兵役経験ではありましたが、大東亜戰爭において御国を護る一兵卒として従軍出来たこと、又従軍したことは何の悔いもなく、日本の最前線を護りました。これは私の誇りでもあります。特に海軍に身を投じ、最初の任地が硫黄島向けの輸送艦乗務員であり、敵航空機の爆撃により沈没後は僅かな期間ではあったけれども、硫黄島警備隊の一員であったことです。

硫黄島も連日の空爆、艦砲射撃に晒されていました。その上飲料水が全くないので雨水を溜めて貴重な飲料水としておりました。栗林中将が指揮する硫黄島守備隊が、水がなく、熱い地熱に悩まされながら、本土を護るため全軍で熾烈な戦いを繰り返し、ついに力尽きて玉砕されたのは昭和20年3月22日(16日の説もある)でした。

この間幾多の将兵が、敵の弾に、あるいは病に倒れられたことでしょう。祖国の必勝を信じて尊い身命を捧げられたご英霊に感謝すると共に、いつまでも尊崇の念を忘れないことは、私たちの当たり前の行いです。私も彼の地に残っていたら玉砕の一員でした。然し、上層部の一齣である兵士として運よく内地に送還されましたが、内地に帰り一週間後に人事不省に陥り、3ヶ月間の入院生活を送りました。若し硫黄島からの帰還が遅れていたら、内地には帰れなかったかもしれません。人の運命は紙一重です。

戦後栗林中将の娘さんが硫黄島を訪れた時に、案内してくれた生還者の方が「この辺り(通称:玉名山)を少年兵たちが 『故郷の空』を、まだ子供っぽい声で歌いながら歩いているのを、市丸少将は涙を流して聞いておられたそうです」と話されたそうです。(梯久美子著 散るぞ悲しき)より。少年兵達は故郷への想いを歌で発散していたのでしょう。

私ごとき少年兵には戦いの運用等は全く分かりません。将棋の「歩」の如く命ぜられる方向に従うべく定められた運命にあるのです。本当に過酷な状況下の僅かな期間ではありましたが、戦争を我が身辺で感じ取った毎日でした。自分もこれが最後と思ったり、近くで敵弾に倒れる人を何名も見てきましたが、当時は人の死に対して特別な感情は無く、異常な状態であったと思います。そしてそういった状態になっていくのが戦争ではないでしょうか。

水漬く屍、草生す屍、まだ故郷に帰らぬご英霊。木片、小石等が遺骨の代わりに還られる英霊の方も居られます。まだ戦後ではないと思います。

ご遺骨を間違うことは有ってはならないことですが、遠い異国の地から早く日本に帰りたいと、望郷の念をもち乍ら待っているご遺骨が残っていることを、忘れてはいけないと思います。

8月15日にはまだ故郷に帰れないご英霊の方々も居られることを念頭に、皆で御霊をご慰霊することだと思います。

参拝者の声(感想文)(全35件)

敬称略50音順。但し、家族は「長幼の序」に従った。

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