団員の声(感想文)
念願適った六氏先生墓
第三班 日吉班 古賀誠
訪問団参加も3度目なので、新しく訪問した所を中心に記しておきたい。
東龍宮(屏東県)
台湾南部の屏東県枋寮郷隆山村にある「東龍宮」の祭神は、明治時代の海軍少将田中綱常らである。140年前の明治4年、台風の為に台湾南部に漂着した宮古島の島民66人のうち54人が、台湾先住民に殺害される事件(牡丹社事件)が起った。外務卿副島種臣が清国と外交折衝を行なったが、清は「台湾人は化外(文化文明の外)の民」として、日本を相手にしなかった。
明治5年に陸軍の田中綱常を中心に23名の調査隊(中山、良山の看護婦2人を含む)が台湾に送られた。明治6年西郷従道らによる「台湾の役」には田中綱常も従軍し、原住民の鎮撫にあたった。争討に際しては戦死およびマラリアなどの病死者合計573名が出た。
田中綱常は海軍に転属になり、軍艦「比叡」の艦長などを歴任した後、明治24年からは台湾の役時の軍人・軍属の遺骨収集や墳墓合葬などの処理に従事した。そして、台湾併合後には澎湖列島行政府長官、台北県知事、総督府民政治事務官などを務め、後年貴族院議員に勅任された。
田中綱常少将から「廟を建てて欲しい」とのお告げを受けたとして、道教道士の石羅界女史は屏東の地元企業からの寄付金と私財を使って、13年前に東龍宮を建立した。廟では田中綱常少将を挟んで2人の看護婦、北川伍長(台湾出兵時の最初の戦死者)、第3代台湾総督乃木稀典が祀られている。地元の人がこの廟に参拝すると病気が治る等のご利益があるそうだ。
芝山巌神社(台北市)
芝山巌は日本統治時代の台湾教育事初めの地である。併合直後に台湾学務掛長となった伊沢修二(日本唱歌の父として有名)と、彼に率いられて赴任した6人の教師(楫取道明、平井数馬ら)は台北近郊の芝山巌に学堂を開き、十数人の塾生を相手に熱心に教育を行っていた。
地元の土匪(盗賊またはギャング)が襲撃する噂があると塾生が伝えたが、「身に寸鉄を帯びて住民の群中に入らなければ、教育の仕事は出来ない。若し我々が国難に殉ずる事があれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と言って取り合わなかった。学堂設立から5ヶ月半後の明治29年1月1日(1895年)に、6人の教師は年始参りに出掛けた所を100名の土匪の襲撃を受け、素手で戦い惨殺されてしまった。伊沢はその後、芝山巌に慰霊碑を建てて霊を弔った。芝山巌精神「たおれて後巳む」はその後の台湾教育に受け継がれた。
1930年に創建された芝山巌神社は戦前の台湾では修学旅行に必ず訪れる場所だった。6人の先生の受難にも拘らず日本本土からは沢山の教師が海を渡って台湾に赴任し、日本統治時代の殉難者は333名に上った。芝山巌神社は終戦後国民党により一旦破壊された。しかしその後、芝山巌学堂の後身である士林国民小学校卒業生有志らの尽力により「六氏先生の墓」と「学務官僚遭難の碑」、そして「芝山巌神社」は立て直され、芝山公園として整備されている。
なお、六氏先生のリーダー楫取道明は実は吉田松陰の甥(実妹の子)であり、楫取道明の孫に当たる小田村寅二郎、四郎両先生に、私達国民文化研究会会員は約50年前から師事して薫陶を受けてきた。六氏先生のお墓に今回参拝でき、私の長年の念願がやっと適った。
明石元二郎総督記念碑(台北県三芝郷)
明石元二郎は福岡市大名出身で、日露戦争時代のロシア後方撹乱工作に従事して日本の勝利に貢献した事は有名である。その後1918年に第7代台湾総督に就任した。台湾統治中には台湾電力設立、日月潭水力発電所建設、華南銀行設立、新教育令での民族差別撤廃などに尽力した。八田與一による烏山頭ダム建設もこの頃である。
途中で病気(インフルエンザ後の肺炎あるいは脳溢血・尿毒症とも言われる)に罹り、生家近くの福岡市天神で亡くなった。任期は約1年4ヶ月と短かったが、「余は死して護国の鬼となり台民の鎮護たらざるべからず、若し我が身に万一の事あれば台湾に葬るべし」との遺言に従い、遺骸は台湾に埋められた。
戦前は日本人墓地の一部に「明石神社」があったが、戦後台湾に進駐して来た国府軍はこれを破壊し、長い間兵隊のバラック街になっていた。この場所は現在台北市のほぼ中心部で新生南路に位置しており、1997年頃「林森公園」として整備された。園内の2つの鳥居は、戦前は明石元二郎らの墓前にあったものという。また公園の周囲は現在日本企業のオフィス街になっているそうだ。
明石元二郎のお墓は、陳水扁総統の時代(1999年)になって台北県三芝郷に改めて埋葬され、我が訪問団も現地で慰霊祭を行った。
中華民國外交部訪問など(台北市)
今回も訪問団は中華民國外交部を表敬訪問した。亜東関係協会秘書長黄明朗氏より、台湾と日本の間で結ばれた投資自由化協定への期待をお聞きした。台湾政治の中枢である台湾総督府付近には、日本統治時の建物が沢山残っており、特に道路幅の広い中山路は民政長官後藤新平による都市計画の名残が覗われて興味深かった。
第二次世界大戦後66年経って、台北市内も当然変っている。戦前に北白川宮能久親王らを祀っていた台湾神宮は、戦後蒋介石夫人の宗美麗の別邸となり、現在は圓山大飯店(ホテル)となっている。また、台湾護国神社は国府軍忠烈祠に建て替えられた。台湾総督府近くの台湾軍連隊跡に建てられた蒋介石時代の中正記念堂は、現在国立台湾民主記念堂と名前が替わって、主に劇場・ホールとして使われているそうだ。
台北市内ではないが、日本人観光客が多数訪れる日月潭湖が、実は明石元二郎総督時代に水力発電の為に作られたダム湖である事は余り知られていない。また、阿里山の林業開発の為に河合鈰太郎が作った森林鉄道は、近年の台風でかなり大きな被害があったようだが、一度訪れてみたいと私は思っている。
第13次 団員の声(感想文)全22件
- 凡生を我國に禀くるもの 誰かは國に報ゆるの心なかるべき(谷尾侃)
- 日本人よ台湾に学べ(日高誠)
- 保安堂で結ばれた不思議な縁(松俵義博・松俵茂子)
- 日台は深く地下水でつながっている(永田昌己)
- 「恥ずかしい」と「感謝」の訪問(田中道夫)
- 日本にとって真の友人である台湾(金澤明夫)
- 正に、台湾国あげての、慰霊団受け入れ態勢作りに感謝(下田健一・下田純子)
- ご慰霊の旅に終りはない(日吉淳治・日吉悦子)
- 台湾は日本にとって大切な絆で結ばれた国(中島公明)
- 慰霊訪問は日本を代表する事業(岩本宣善)
- 一度行けば再び訪れたくなる台湾慰霊の旅(佐護美和子)
- 台湾の人たちとのもっと深い心底からの交流を求めて(小濱善和)
- 初年兵の時台南で任務していた叔父に代わって(森下学)
- 念願適った六氏先生墓(古賀誠)
- 宝覚寺に響く「鎮魂の譜」の音色(中村哲)
- 謙虚に学び合い助け合う(小野正明)
- 日本と台湾は精神的には名実共に一国という実感(永石辰郎)
- 戦争がこんなにも身近な旅(石原一二三)
- 台湾に散華の御霊一万余祖国の平和に生きる人待つ 台湾で最も愛される日本人、八田與一を訪ねて(木下嘉平)
- 終戦時まで日本の臣民であったことの誇り(三好誠)
- 馬政権も無視できない慰霊大訪問団へ(反田邦彦・反田由美子)
- 日本にもらった愛を忘れてはならない(頼永博朗)