団員の声(感想文)
謙虚に学び合い助け合う
第四班 中島班 小野正明
72年ぶりに少年時代を過ごした台湾を訪れた。松山に向う車窓から眺めると、先ずは道路工事とビルの建設ラッシュ。台北に近づくと、かつての郊外は中心街と化し、緑の並木で区分けされた広い大通りが縦横に走っている。台湾の爆発的エネルギーに圧倒された。翌日、南へ向かう途中で、工業地帯や農村地域が見えた。計画生産が地域ごとに集約されている。住民の公共心あっての事業推進である。日本では、とてもこうはいかない。
台湾の人は義理堅い。私心なく、差別なく、ひたすら台湾の発展に尽くした人を忘れない。記念碑を建て、民族宗教によって祀るなどして、敬慕している。烏山頭ダムを見下ろす大きな殉工碑に、八田與一技師の直筆と思われる碑文があり、礎石の三面には、日台の別なく肩を組み合うように、ぎっしりと殉職者の姓名が刻まれていた。友情と苦闘の証である。
大東亜戦争の戦没者慰霊式典で〈海ゆかば〉を唄いながら、涙が溢れて止まらなかった。「皇民化運動」のもと、台湾人が最初に志願したのは、ガダルカナル激戦中の昭和17年4月、徴兵制施行は、昭和19年9月である。戦地に着いた者は、弾丸も食糧も届かない悲惨な負け戦の場で、言葉では表せない苦しさを味わって亡くなられている。海に消えた人も多い。もともと台湾には兵役がなかった。たとえ熱誠をもって志願したとしても、このような戦況下、行かせないのが日本人の意地ではないかと、私は思っている。
台湾統治時代に「同胞化」という用語が使われている。いつの世も、このようなキャッチフレーズにはまやかし物が多い。初代樺山総督は「一視同仁」「愛育」「撫育」を、統治の基本として掲げた。4代児玉総督に台湾統治を一任された後藤新平民政局長は、「鮃の目を鯛の目にすることはできぬ」との比喩をもって、台湾文化の濫りな破壊を戒めている。幕末の藩政を体験している明治初期の為政者は、何かひと味違うものを身に付けていたように思う。
残念ながら、ほとんどの台湾関係著書は、〈台湾人は差別を受け、二流日本人として扱われた不満を抱いていた〉と記している。それを否定するつもりはないが、日本などに留学して高レベルの知識や能力を備えた優れた人々は多い。私自身の少年時代に接したいわゆる本島人は善い人ばかりで、内地人と変らぬ友達であった。
日本の国益にとって、中華民國即ち台湾は最も大切な隣邦である。台湾統治から離れて66年、日中共同声明によって国交を失ってから39年、相変らず親しい友としての関係は途切れていない。その間に果した台湾の大発展を讃え、学ぶべきものは学ぶ謙虚な気持で、絆をより強めながら、助け合っていきたいものである。
第13次 団員の声(感想文)全22件
- 凡生を我國に禀くるもの 誰かは國に報ゆるの心なかるべき(谷尾侃)
- 日本人よ台湾に学べ(日高誠)
- 保安堂で結ばれた不思議な縁(松俵義博・松俵茂子)
- 日台は深く地下水でつながっている(永田昌己)
- 「恥ずかしい」と「感謝」の訪問(田中道夫)
- 日本にとって真の友人である台湾(金澤明夫)
- 正に、台湾国あげての、慰霊団受け入れ態勢作りに感謝(下田健一・下田純子)
- ご慰霊の旅に終りはない(日吉淳治・日吉悦子)
- 台湾は日本にとって大切な絆で結ばれた国(中島公明)
- 慰霊訪問は日本を代表する事業(岩本宣善)
- 一度行けば再び訪れたくなる台湾慰霊の旅(佐護美和子)
- 台湾の人たちとのもっと深い心底からの交流を求めて(小濱善和)
- 初年兵の時台南で任務していた叔父に代わって(森下学)
- 念願適った六氏先生墓(古賀誠)
- 宝覚寺に響く「鎮魂の譜」の音色(中村哲)
- 謙虚に学び合い助け合う(小野正明)
- 日本と台湾は精神的には名実共に一国という実感(永石辰郎)
- 戦争がこんなにも身近な旅(石原一二三)
- 台湾に散華の御霊一万余祖国の平和に生きる人待つ 台湾で最も愛される日本人、八田與一を訪ねて(木下嘉平)
- 終戦時まで日本の臣民であったことの誇り(三好誠)
- 馬政権も無視できない慰霊大訪問団へ(反田邦彦・反田由美子)
- 日本にもらった愛を忘れてはならない(頼永博朗)