私の8月15日

宮原泉

私は国民学校高等科2年(現在中学2年)の年に、海軍志願兵として試験を受けた。第1志望少年飛行兵、第2志望少年電信兵、第三志望少年水測兵。15歳の少年が受けられる職種は以上の3つのみでありました。第1志望の少年飛行兵は、肺活量不足で不合格。第2志望、第3志望に合格。当時は国民学校6年生迄が義務教育。高等科2年までは自由であり裕福な家庭の子供は中学校(旧制)へと進学したが、学級の中から3、4名位の者しか進まなかった。他は鉄道や、軍の付属工場等に少年工として入るか、家の農業手伝い、他の家に住み込みとしてその家の農業に従事するか、私みたいに軍に入るかの道しかなかった。

私は海軍志願兵として同級生3名と在学中に受験したが、その内私と、1名が合格し、結果私だけが採用されることになった。

卒業後、「モールス」の教本が送られて来て、入隊までにそれを覚えておく様にと指示された。然し丸暗記では何の役にも立たないことが入隊後分かった。「モールス符号」には独特の覚え方があったのだ。

その年の8月8日に地元の村中で入団の祝宴が開かれ、激励を受け、翌9日の午後には佐世保市の指定された旅館に到着した。夕方、海軍関係者がきて、翌日の入隊について説明を受けた。私と同じ様な少年が多数いたことを覚えています。彼ら同年兵とは、後年、終戦後数年を経て福岡県海友会の席で何名かに会うことが出来た。

翌10日に徒歩で第2海兵団(現在陸上自衛隊相浦駐屯地)に入団。愈々海軍軍人としての第1歩を踏み出しました。その後、軍服の支給、着用方法、簡単な規則等の説明があり、軍服に氏名記入をして、入隊まで着用していた私服一切を自宅へ送り返した。そうして8月15日には、その年に開校したばかりの山口県防府にある「海軍通信学校」に入校した。また新たに海軍軍人としての決意を自覚した。

この8月15日が、2年後の敗戦の日となることも知らず、希望に胸を膨らませた入校の日だったが、この「8月15日」という日は、私にとって生涯忘れることの出来ない日付となった。

入隊して2年後のこの日が、こんな屈辱の日になろうとは夢にも思っていなかった。

ここまでが少年兵としての入隊までの覚え書である。

然し今は、海軍軍人となったことに悔いはありません。ある種の誇りさえ持っています。祖国の防人の1人として働けたことを。

参拝者の声(感想文)(全29件)

敬称略50音順。但し、家族は「長幼の序」に従った。

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