団員の声(感想文)

日本人として台湾日本語世代の方々の人生と心情に寄り添いたい

副団長 原田泰宏

最初に、意義ある慰霊訪問を計画・催行された小菅団長、事務局関係者の方々に改めて敬意を表すると共に、御礼を申し上げます。

今回は、今までの気持とは違って、改めて慰霊の旅について考えさせられたものでしたので、体験したことを含めて述べたいと思います。

今回で6回目の参加は、3日目の夜の台湾台日海交会の歓迎夕食会からAコースに合流するBコースでした。昼過ぎに台中のホテルに到着し、夜の夕食会まで時間がありましたので、今まで慰霊祭で知り合った台湾の日本語世代の方々を訪ねようと思いました。昨年、慰霊の旅に参加できずお会いできませんでしたので、高齢であるこれらの方々の安否も兼ね、夕食会では時間も限られますので、ゆっくりお話でもできればと思っておりました。事前に連絡もしていなかったので、ご在宅かどうかは分かりませんが、せっかくの貴重な時間でしたので、住所だけを頼りに5名でタクシーに乗り込みました。同じBコースの方にお声掛けをしましたら、私と初対面にも拘らず、また詳しい説明をしなかったにも拘らず、そこは慰霊の旅に参加される方だけあってすぐに同意され、4名の方が同行されることになったのです。

訪問先は張蕊さんです。私が最初に参加した「第10次慰霊訪問の旅」で知り合いになった方です。大正11年生まれ、日本統治時代に生まれ、大東亜戦争中、国民学校の教員から志願して第一次海外派遣篤志看護助手として香港に派遣され、戦後は、話せない中国語(こちらでは北京語と言われる)に苦労しながら生き抜いてきた方で、初対面の時、「あなた静御前の和歌知ってる?『しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな』をずっと思いながら戦後を生きてきたのよ」と話しかけられる流暢な日本語を聴いて、なんと教養があるのかと驚き、現在の日本人以上に日本人らしい方にお会いし、戦前の日本人(当時の台湾人は日本人だった)の素晴らしさに感激した記憶があります。毎回お会いすることを一番の楽しみにしておりましたが、最近は音信も疎くなっていましたし、ひょっとしたら、ご高齢で今日の夕食会には来られないかもしれないと思っていました。

ご自宅を訪ねますと中年のご婦人が出てこられました。『私たちは日本人です。張蕊さんにお会いしたい』という意味が通じて欲しいと期待を込めて、知っている僅かな中国語の単語を並べて話しかけました。熱意で通じたのか、しばらくしてそのご主人とおぼしき男性が呼び出されてきて、私たちを1階の仕切りの奥のベッドへ案内してくれました。そこには、酸素吸入をされたご婦人が横たわっていました。意識はありませんでした。2年前にお会いした時は、杖を突きながらも慰霊祭には出席され、「もうこれが最後かもしれないわ」と冗談とも本気とも取れないことを言われたことを思い出しました。まだ矍鑠とされていましたので、ずっと元気でいらっしゃるだろう、そうあってほしいと願っていました。また、お会いするたびにビデオに撮ってきましたが、食事会の時ではなく、静かなところでインタビューして映像に残したいとも思っていました。

しかし、現実は叶いませんでした。94歳の年齢を考えると、このような状況になることは自然の摂理と言えるでしょう。しかし、本当に悲しく残念に思うと共に、戦後71年も経てば、畏れていた通り、日本統治の歴史が消えていく現実を、こういう形で知らされた様な気がしました。

私たちと同行の方も、初対面の張蕊さんに対し身内のように声を掛け、手を握って回復を祈っておられました。しばらくの間、私たちはものを言わない張蕊さんを見守り励まし、家人の方に面会を許していただいたことに御礼を言って家を出ました。何の前触れもなく、言葉の通じない突然訪ねてきた5人の日本人を、重篤な身内に会わせてくれた息子さん夫婦に感謝しました。台湾人の人としての優しさを感じました。これが逆の場合だと、とてもできないと思いました。

日本統治時代に日本語で育った台湾人の方は、戦前の日本の教育は素晴らしかったと皆さんおっしゃいます。私はその日本語世代の方は、大和魂を持った本当の日本人として教育され青年や成人となったにも拘らず、戦後は突然、物を考え、感情を表現する日本語を禁止され、中国語を強要されてしまい、しかしながら彼等にとって中国語は外国語であったことから感情を表現するレベルにまでは取り入れることは出来ず、結果的に思考する言語として戦前の日本語、及び大和魂が彼等の中に生き残ってきたと思っています。一方、日本本土では、日本語により自虐史観の植え付けがなされてきたため、日本社会で大和魂が悪者にされ、日本でそういう人に会うことが非常に難しくなっています。

さて、その夜の歓迎夕食会には、勿論張さんの姿はありませんが、そこでの出来事が、日本に帰って来て、元気なころの張さんに巡り会わせてくれたのです。それは、張さんと同じように海外派遣篤志看護助手に志願した孫傳秀松さんから戴いたお土産の袋の中にお菓子と一緒に一冊の本が入っていて、「読んでね」と言われて渡されたものでした。台北の紀伊國屋の袋に入ったその本は日本で出版された『台湾の戦後 敗戦を越えて生きた人々』(大谷渡 東方出版)でした。帯には『日本人として育ち戦争を体験した終戦時に篤志看護助手、学徒兵、航空厰少年工などだった人たちが、その後の激変する台湾社会で紡いだ人生を綴る』とあります。最初は孫傳秀松さんのことが書かれてありましたが、読み進めると、突然『張蕊』という文字が目に入ってきました。張蕊さんの生い立ち、戦前の人生のことがインタビューされていました。私が張蕊さんに会って聞きたかったことが、このような形で叶ったことに不思議な縁を感じました。

私は、慰霊の旅の目的である「大東亜戦争で日本人軍人・軍属として命を捧げられた台湾の方々を慰霊顕彰する」ことに加え、まだ生きておられる元日本人の方々とできるだけお話をし、手紙を交わし、お土産をお渡しする関係を築くことで、喜んでいただきたいと思っておりました。それは、私の親を始め、戦前の日本人がしていた、今の日本では薄れた、逆に今の台湾に色濃く残るなにか懐かしい風習を実践していくことだけでした。

しかし、この本の「はじめに」に書かれていた以下の文章で自分がしたいことがハッキリしたような気がします。それは、「日本統治下に育ち戦後70年を生きてきた台湾の人たちは、日本が始めた戦争のただ中で、日本人として青春期を過ごしたことを、私は忘れてはならないと思う。戦争で亡くした肉親や戦友に深い哀惜の念を持ち続け、平和を祈る強い気持も日本内地と内地に引き上げた日本人となんらかわるところがない。ただ戦後、国境を隔てた彼らの存在を多くの日本人が忘れてしまっただけではないか。この人たちの人生とその心情に寄り添うことにきづいてこそ、初めて歴史の真実に触れることが出来るように思える。」

張蕊さんの例を引くまでもなく、私が思う本当の日本人である日本語世代の方々は急速に減ってきております。これらの方々に感謝の念を表すため、この慰霊の旅が続く限り参加し、台湾の方々の人生と心情に寄り添って行きたいと思います。

第18次 団員の声(感想文)全18件

訪問次で探す

お問い合わせお問合せ