団員の声(感想文)

台湾教育の事始め―芝山巌事件における六士先生遭難

第四班 班長 古賀誠

第14次台湾慰霊訪問団に参加して、台北市士林区の芝山公園を再訪できたこの機会に、芝山巌事件とその歴史について纏めてみたい。

明治28年4月、日清戦争後の下関条約によって、台湾は日本に併合された。同年6月に日本軍が台北に入城し、総督府始政式を行った。その頃、台湾初代総督樺山資紀に台湾の教育について建議して、台湾の初代学務官僚に任命されたのが伊沢修二だった。

伊沢は日本では文部省学務部長心得を務め、小学校唱歌などを手掛けて「日本唱歌の父」として有名だが、その彼が台湾教育事業を志したのである。

早くも明治28年7月16日、伊沢は芝山巌の恵済宮という廟の後殿で日本語伝習所を開き、芝山巌学堂と名付けた。教務員は楫取道明、関口長太郎、桂金太郎、中島長吉、井原準之助、平井数馬の六名で、生徒6名と寝食を共にしながら教育を始めた。しかし、台湾平定戦争はまだ終わっておらず、芝山巌の周囲も治安が悪くて、土匪(ヤクザ或いはゲリラ)による首狩りなどが横行していた。そのため生徒達は「教員襲撃の噂がある」と懸念を伝えて避難を勧めた。

けれども、教員達は「我々は教育に携わる文官である。この危機の時に当たり、文力で敵に抗する事の出来ないのを知ってこれを避ければ、臣子の道を失する事になる。我らの命運は天にまかせる他ない。全てを職務のために尽くすのみ」「寸鉄(武器)を帯びずに住民の中に入らなければ、真の教育は出来ない。若し国難に殉じる事があれば、その時こそ台湾人生徒に『日本精神』を具体的に示せる」として、命がけで台湾人生徒の教育に励んだ。
伊沢が教員募集のため日本に出張中の明治29年1月1日、芝山巌事件は起こった。正月のお祝いの為外出した教員6名は約100人の土匪に取り囲まれた。6名は堂々と土匪達に教育の大義を諭しつつ防戦したが、全員惨殺され、着衣を剥がされ、首も切られた。中には背中を断ち割られて川中に投げ込まれた遺体もあった。恵済宮の宿所も襲われて、彼らの所持品も奪われた。

このニュースは東京にも伝わり、台湾教員募集の応募者約800人中から約500人の辞退者がでた。しかし、合格者45名からは落伍者は全く出なかった。これは明治精神の凄さと言ってよいだろう。

台湾に戻った伊沢は、遭難した教員6名の遺体を集めてお墓を作り、また学務官僚遭難之碑を建て、29年7月1日に慰霊祭を行った。石碑は台湾訪問中だった伊藤博文内閣総理大臣の筆による。この慰霊祭における伊沢学務部長の祭文には、「あわれ芝蘭の野は長に緑に、芝山の巌は千古に渉りて動かざらん。ここなる樟の一本の辺に墳を築き碑を建てて、諸君の遺蹟を後の世に語り継ぐべき標とはしぬ。あわれ英霊よ天翔り来て永くここに留まり賜い、本島の文化を導きたまえ」とある。そして、毎年2月1日に例祭が行われる事が決まった。

明治34年伊沢修二は台湾学務部長を辞して日本本土に帰った。そして、大正6年5月、67歳で脳出血で死亡後には、遺髪は遭難教員6名のお墓に合祀された。大正8年11月には台湾教育会の手で伊沢修二の記念碑が芝山巌に建てられた。

こうして、伊沢と6名の先生の意思は「芝山巌精神」すなわち「斃れて後已む精神」として、台湾の教育者達に受け継がれていったのである。

昭和4年12月、台湾教育創始の地として「芝山巌神社」が竣工し、教員の参詣や学校の遠足・修学旅行のコースとなった。

芝山巌事件以後も台湾における学校建設は着々と進んだ(訪問団が訪れた嘉義県鹽水國民小も極く初期に建てられている)。そして、多くの日本人教員が赴任し、彼らの姿と教育に賭けた情熱こそが、台湾に「日本精神」を教え、親日国家台湾の礎となった。昭和19年の就学率はお陰で71%に達した。
他方、事件や風土病で犠牲になった日本人教育者は昭和8年までに330名、昭和17年までに529名に上り、芝山巌の殉職教員顕彰碑に連記された。

第二次世界大戦後、台湾に侵攻した蒋介石国民党は、芝山巌神社を散々に壊し、遭難先生6名のお墓を破壊した。また、学務官僚遭難之碑を倒し、殉職教員顕彰碑をバラバラに砕いた。

「芝山巌事件碑」が国民党により作られたが、この記載を読めば、芝山巌事件の犯人達(土匪)は「義民」とされ、「日本の同化政策の根源である奴隷化教育施設を破壊し、その教育者を殲滅するための英雄的行為」と記された。この状態が約半世紀も続いた。ただ、遭難教師のお墓の破壊に伴って露出していた骨壷だけは、恵済宮の真明住職が密かに仮の墓を建てて、無縁仏として祀っていた。

平成7年になって、付近の士林国民小校友会は百周年事業の一環として「六士先生之墓」を重修し、合わせて学務官僚遭難之碑を再建した。殉職教員顕彰碑も修復再建されていると言う。

士林国民小は芝山巌学堂を創始と考えており、伊沢修二を創校者としている。校庭には「国民教育発祥地」の碑もある。100周年記念式には遭難教員、楫取道明(吉田松陰の甥)の孫、小田村寅二郎(国民文化研究会創始者)・小田村四郎(李登輝友の会会長)兄弟、平井数馬の遺族、平井幸治氏らが招待されたという。

現在、恵済宮や六士先生之墓を含む芝山巌一帯は芝山公園として整備され、台湾の教育のメッカとして訪れる人は後を絶たない。毎年2月1日には、学務官僚遭難之碑の前で例祭が行われると共に、全台湾の学校生徒が芝山巌に向かって黙祷を捧げるそうだ。

六士先生の歌(作者不詳)
やよや子等 励めよや
学べ子等  子供達よ
慕へ慕へ  倒れてやみしせんせいを

歌え子等  思へよや
進め子等  国のため
思へ思へ  遭難六士先生を

《参考文献》
1.篠原正巳著『芝山巌事件の真相』和鳴会(序文は小田村四郎氏)
2.蔡焜燦著『台湾人と日本精神、日本人よ胸を張りなさい』日本教文社 

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