団員の声(感想文)

第11次台湾親善友好慰霊訪問の旅に参加して

第五班 岩本班 前原照美

まだ余韻さめやらぬあの感動的な5日間を思い出しながら「人の思い」というものは何かを切り開いていくものだとしみじみ実感しています。

今回遂に私共は念願のバシー海峡に立ち、潮音寺にお参りすることができました。その上団長様はじめご同行の皆様のご配慮により思いがけずも潮音寺の慰霊碑に献花までさせていただき、更にバシー海峡に流れ込む川の橋の上から花束を投下させていただきました。身に余るお心遣いを賜り心からありがたくお礼申し上げます。

慰霊碑の前で〝海ゆかば〟の曲を耳にしながら黙祷を捧げているうちに涙があふれました。この涙は団の皆様への心からの感謝と、65年目にしてやっとこの地に立てた感激と興奮とが入り混じったものであったように思います。

ここ数年、私は義父の事がずっと気になっていました。写真でしか見たことのない義父については、「大阪商船(現商船三井)の輸送船玉津丸に一等機関士として乗船し、マニラへ向けて航行中、昭和十九年八月十九日、バシー海峡で雷撃沈没戦死、三十九才」これだけしか知りませんでした。義母もすでに他界し聞くこともできません。玉津丸がどんな船だったのか。いつ船出をしてどんな状況で沈んでいったのか。将兵や兵器は、などもっと知りたいと思っていました。このままでは無念の死を遂げた義父がうかばれない。子ども達にも祖父のことを伝えることもできない。最近は特にその気持が強くなってきました。どこかに手がかりはないものかと。

そんな折、潮音寺の存在を初めて知ったのは昨年春頃、産經新聞の「談話室」の記事でした。すぐに切り抜いたものの紛失。悲しいかなお寺の名前さえ記憶していませんでした。

その数ヶ月後、日本会議の方から偶然潮音寺のことを耳にしました。救われた気持になり主人と共に是非一度訪ねたいと思ったのはこの時でした。

一方、玉津丸の事が気になっていた私は近くに出かけた折に、商船三井の本社を訪れました。小さな手がかりでもあればとあまり期待もせずに伺ったのです。昨年9月の事でした。ところがあったのです。事情を話すと係の方が何冊かの本を取り出して玉津丸の部分をコピーして下さいました。私は跳び上らんばかりの気持でありがたくいただいて帰りました。帰りの中央線の中でむさぼるように読みました。涙で字が何度も霞みました。

その資料について少々長くなることをお許し下さい。

玉津丸は9,590総トンの大型上陸支援船で、船艙に上陸用舟艇を格納し敵前上陸に際し、船尾部が開口してそこから舟艇を出すという従来にない独自の構想が盛り込まれていた。しかし竣工時期が遅くその本領を発揮する機会はなく専ら輸送に従事した。

玉津丸は昭和19年8月19日、ボヘアドール岬西北西90kmに来た午前4時30分、米潜の雷撃を受け沈没。乗員・乗船者4820名中4755名が戦死し、陸兵輸送中の遭難では最大級の惨事となった。

玉津丸は初航海から半年の命だった。第三次航まではマニラへの輸送に成功。第4次航の昭和19年8月6日、門司出航が最後の航海となった。

駐蒙軍の中核部隊として満州にあった第二十六師団の主力4000名以上を満載した玉津丸は伊万里湾でヒ七一船団に編入。この船団は比島防衛の兵力増強を目的とする泉兵団(第二十六師団)をはじめ多数の精鋭を塔載した高速船団であった。

船団は8月10日伊万里港出撃。15~17日、馬公に避泊。17日馬公出航。高速を誇る15隻の輸送船(タンカー2隻含む)と、それを取り巻く空母一隻を含む13隻の護衛陣は圧巻そのもので盤石と思われたがその期待はもろくも崩れ去った。

日中は空母大鷹の艦上機が哨戒したが上空警戒のない夜は敵潜の狼群攻撃の脅威下で航海。この時期は低気圧のせいで海は荒れていた。バシー海峡に入った18日、まずタンカーが被雷落俉。夜には空母大鷹が雷撃を受け爆発数回で沈没。各船は雷撃を免れるため全速で独自に避航を始める。間もなく帝亜丸が被雷沈没。空母の沈没で上空警戒がなくなった19日に入ると2隻の輸送船が次々に被雷。

一方玉津丸は他船と離れてしまい視界不良の中を全速で航行していた。ボヘアドール岬西北西90kmに来た午前4時30分、玉津丸も遂にとどめを刺される。

突如雷跡二条を右120度方向に発見。船長は直ちに「取舵一杯」を指令。一等運転士は非常ベルを鳴らし、戦砲隊長は射撃命令を出す。この雷撃をかわした間もなく又も「魚雷右50度近し!」に今度は面舵一杯を命じる。しかし舵効の出ぬまま米潜水艦スペードフィッシュの魚雷が右舷中央に2発命中。暁闇の荒海に激しい雨の降る中、船砲隊の火箭が暗黒の海に打ち込まれていた。玉津丸はなおも高速で進むが徐々に右に傾く。傾斜が30度となり復元薄と判断した船長はブリッジを左右に往来して「総員退船」を命令。

この間3分。傾斜を増した船は被雷4分後に煙突から蒸気を出しながら水中に没する。

船長以下138名の乗組員は3名を除いて全て船と運命を共にした。

運よく脱出できた部隊員の殆ども荒海に苛まれ、船が護衛艦から離れた位置にあったため救助の手が届かず絶望の漂流をする。助かった乗組員の2名が救命ボートに部隊員43名を救助して4日間漂流したのち護衛艦に救出された。

こうして遂に義父の最期を知ることができました。同時に65年前の悲惨な光景は私の頭の中に鮮明に焼きつけられました。

それから丁度1年、バシー海峡を臨む高台に立ちました。目の前に広がるまっ青な海。悲しいほど美しい海でした。いつまでも眺めていたい海でした。ここには今も義父と同じような最期を遂げられた日本将兵25万と200隻もの船が海底深く眠っているとの事。

今年1月、靖國神社の遊就館に遺影を掲げていただく事もできました。そして仕上げとも言える潮音寺にお参りすることができて、私共の心は不思議なほど落ちつきました。

ここに至るまで確かに予期しない偶然の連続でした。新聞記事から始って「潮音寺」を耳にしたのも、玉津丸のコピーをいただけた事も、訪問団の事を『日本の息吹』で知った事も。しかしその時は偶然だと思っていた事が今は「思い」の結果だったと感じています。そして私の「思い」は今回の参加でひと区切りがつけたと同時に、台湾との生命の絆を深めるという新たな一歩を踏み出しました。

第11次 団員の声(感想文)全19件

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