団員の声(感想文)
日華(台)親善友好慰霊訪問の旅に参加して
第五班 岩本班 前原清美
この度、慰霊訪問の旅に参加できましたことを心から感謝いたします。
特に念願だったバシー海峡を眺め、潮音寺では献花までさせていただき予期しないことで感動いたしました。感謝申し上げます。
バシー海峡を眺めながら父のことが浮かんできました。父が玉津丸の中を見せてくれた時のことです。上下間隔の狭い蚕の寝床のような将兵用ベッドや、船底には重機のようなもの(戦車だったかも知れません)が沢山並べられていました。部外者は立入禁止だったらしく見張りの人に制止されましたが、父はその制止をふり切って私を船底へ連れて行ったのです。父がどんな意図でそうしたのか今となっては想像もつきません。当時家族は神戸に住んでいましたので、船が神戸あたりに立ち寄った時のことだったのではないかと思います。この時が父との最後の別れになりました。国民学校五年の時でした。
父は若い頃、大阪商船(株)の南米航路の船乗りでブラジル丸、アルゼンチナ丸、ブエノスアイレス丸などのファンネルマーク「大」の字を掲げ移民船で働いたことが自慢でした。荒れる印度洋を超えケープタウンに到達した大西洋に入り、そこを往来していました。当時大阪商船では最も長い距離を走航するのはこの南米航路でしたので、三菱長崎造船所のディーゼルエンジンを最強で故障のないものにする願いがあったようです。父は世界一のディーゼルエンジンを育て上げたと私に教えてくれました。
私がもっと小さい頃には、父はよく湊川神社に連れていきました。神戸湾のすぐ近くにその神社があったからでしょう。そこには「嗚呼忠臣楠氏之墓」とあるのを何度も繰り返し読ませました。又、皇居の一角にある楠正成の馬上像のところへ連れていったこともありました。私は父は「尽忠報國」の精神を教えたかったのだと思います。
父は戦争が始まってから玉津丸に乗船するまでは、南洋からボーキサイトや生ゴムを運んでいました。
玉津丸は陸軍が設計した多機能高速船として三井造船の玉野造船所で製造されました。玉津丸に乗船した泉岳団の最強将兵が無事にルソン島まで輸送されていたら戦局はまた違っていたのではないかと思います。かえすがえすも残念でなりません。
台南では奇美博物館を訪問しました。許文龍様は芸術ばかりでなくあらゆる事に情熱をかけられ、博識で人間愛にあふれた方だと感じました。絵画のコレクションばかりでなく昆虫の蒐集にも熱心で、蒐集物の中に与那国島にいる「ヨナクニサン」と同じ蛾があって私は昆虫好きですので興味を覚えました。
帰国後、許文龍様の『台湾の歴史』は一気に読ませていただきました。
その中に八田與一、児玉源太郎、後藤新平、明石大将、新渡戸稲造など台湾のために力を尽した日本の先人達が次々に現れているのに感動させられました。
また、「日本人は一番侵略性のない民族ですよ」「日本刀は美しい」と書かれているのにも感動しました。
この旅で台湾の方々に直接触れ、あちらの方々がこれほど私達に親しみをもっておられることにびっくりしました。
今後も台湾のことをもっと知りたいですし、台湾との絆をもっと深めていきたいので来年もぜひ参加したいと思っています。
第11次 団員の声(感想文)全19件
- 明治人の偉業とこれに応える現地古老の人々(谷尾侃)
- 異例づくめの感動(金澤明夫)
- 台湾有情(大橋昭仁)
- 慰霊を回復して人は国民になる(梶栗勝敏)
- 第11次日華(台)親善友好慰霊訪問の旅に参加して(篠原章好)
- 2度目の感謝と感激の旅(岩本宣善)
- 第11次日台親善友好慰霊訪問団に参加して(古賀誠)
- 第11次日華(台)親善友好慰霊訪問団に参加して(松俵義博・松俵茂子)
- 一蓮托生の日台(高原弘之)
- 初めての訪問団参加を終えて(中村哲)
- 日華(台)親善友好慰霊の旅に参加して(松下美佳)
- 第11次日華(台)親善友好慰霊訪問団に参加して(永田昌巳)
- 台湾よ永遠なれ(戸田幸雄)
- 台湾の軍属慰霊団に参加して(下田健一)
- 日華(台)親善友好慰霊訪問団に参加して(下田純子)
- 慰霊訪問に参加して日本人より逞しい台湾の人々の気持ちを学びました(日高誠)
- 日華(台)親善友好慰霊訪問の旅に参加して(前原清美)
- 第11次台湾親善友好慰霊訪問の旅に参加して(前原照美)
- 慰霊訪問の感想(力武崇樹)