団員の声(感想文)

台湾有情

副団長 大橋昭仁

今回の本訪問団の台湾旅行で記しておきたいことを以下に挙げる。

1、まず、外国人(スリランカ人)であるW・サニー氏に参加して頂いたことである。私と彼とは仕事上のお付き合いの関係である。しかし1人で食事をするのは寂しいという彼の性格もしくは彼なりの食習慣から、彼に誘われて一緒に食事をすることがしばしばだった。その席上、本慰霊訪問団と現地の方々(特に日本語世代の方々)との温かい交流について私が触れると、しばしば怪訝な表情をするのでその理由を尋ねてみると、「台湾人が日本人に好感を持っているのが信じられない」とのこと。さらにその理由を尋ねると、彼の母国スリランカと植民地宗主国だったイギリスとの関係とオーバーラップして理解しておられるようであった。彼によると、イギリスは、彼の国に随分ひどいことをしているのである。彼は一見穏やかな人柄であるが芯には激しいものも持っており、それは彼がイギリスを語る時にしばしば表情に出た。

そこで「イギリスと日本は違いますよ!」と私が言い放つと、「そんなはずはない!」

と睨みつけてくる。「そんなに信じないのなら一度だけでも良いから一緒に我々の旅行に参加すればいいでしょう!」と切り返すと、「じゃあ参加しましょう!!」ということで、参加人員32名分の1名になった次第である。まさに売り言葉に買い言葉である。

彼は初日と2日目の朝こそ「こんなに朝の早い旅行は初めてだ」「スリランカ人は、朝紅茶を飲まないと頭も体もおかしくなる。だから紅茶を飲む時間も無い様な旅行は、もうこれが最後。(この訪問団に)参加するのは1回だけ!」と激しくも情けない愚痴をこぼしていたが、日台両方のみなさんが大切にして下さるのがよほど気に入ったのか、2日目の午後以降は、たいそう機嫌よく、朝グズグズする以外は申し分のない優良メンバーであった。その他の道中の彼への人物評価・所作言動の印象についてはご一緒した皆様方の受けた彼への印象記・印象談にお任せしたい。

同行した産經新聞の記者の力武さんが、サニー氏の存在を上手に使って随行記事を作成しくれた(平成21年12月1日同紙朝刊)。烏山頭ダム(烏山頭水庫)を背景に、ポエム的な随行記を書いてくれた。爽やかな印象を与える、若さの出た良い記事だと思う。

ただ、私が本当に記事にして欲しかったのは、台南市郊外の奇美博物館での同博物館の重鎮、石栄尭氏との対面のシーンである。それは、団長が外国人であるサニー氏の参加の動機と彼が持っている疑問を石氏に紹介したところ、石氏が、間髪をいれず「もし日本に統治されていなかったら、台湾は今の海南島よりも貧しい島だっただろう。台湾人は日本に感謝している」旨を説明し、さらに現在も朝はお味噌汁を食卓に欠かした事がない、云々といった旨の親日的なエピソードを披露された場面である。あの光景はまさに正面からサニー氏の疑問に答えたものであり、かつ私どもの旅行目的から見ると値千金の価値のあるものだったからである。もっとも、新聞記事といえども、読み物としての面白さは必要であり、その辺は十分検討の上の記事化だろうから、あの記事の結果には満足している。

2、次に印象に残ったのは、最終日の烏来の「高砂義勇隊戦没英霊記念碑」を訪れた時の事である。実は同記念碑は最近まで石碑の表面をすっぽり竹で覆われていたそうであるが、私どもの訪問時はそれが取り払われていた。そのいきさつを語って下さった現地の同記念碑の保護管理団体「高砂義勇隊記念協会」の代表者(理事長代理)周萬吉さんのお顔の表情が何とも言えず実に誠実そのものであった。地元の中に慰霊碑の存続に反対し、前述の慰霊碑を竹で覆う人達がいたのだが、それには色々と誤解があった様だ。その1つに日の丸の掲揚の問題がある。日本国旗としてではなく台湾軍の旗として掲げているのだ、ということを分かってもらうのに随分苦労されたようである。「日本国旗を投げ捨てればいくらでも融通はきく。しかしそれでは多額の寄付をして下さった日本の皆様方に申し訳ない云々」と、そうおっしゃる1人の小柄なご老人のお顔には誠実さが溢れていた。私は絶えて久しくそのようなお顔を拝見したことがないので、思わず目頭が熱くなった。

3、3番目は林阿勇氏のことである。11月24日の台日海交会のパーティーの席上、同氏が私にA4の紙を渡しながら話しかけてこられた。その紙には52名の台湾人の方々のお名前や住所、職場名等が書かれてあった。それは、私がかつてお届けした「長寿十訓」という訓辞集をわざわざ52名分コピーして配って下さったその相手方の一覧表だったのである。私は本当に驚くと同時に感激した。おそらく林さんは長寿十訓をおおいに気に入られ、私への感謝の気持ちとして沢山の友人・知人へ伝えて下さったのであろう。そして、それらの人々の載った手書きの名簿を作成し私に届けて下さったのであろう。「これだけの仲間があなたに感謝しています」という意味であろうか。まさに手作りの感謝の表現方法である。有り難い限りである。かつて、飛虎将軍廟の責任者の呉さんが、私どもへの感謝の気持ちとして「同期の桜」の歌詞をその時の団員の人数分(約20名分)を手書きして一人一人に配って下さった事があった。その思い出と重なって感無量の一時であった。なお、林阿勇さんは、私どもが帰国する際は台北空港までお見送りに来て下さった。日本語世代の、そして古き良き日本人の律儀さを体現しておられる台湾人のお一人である。

4、他に、旅程中のかなりの部分を同行して下さった林渓和さんもいつものことながら印象深い方である。前述の産經新聞欄にお写真とお名前が掲載された方である。また、私の「兄貴分」台中市の蔡純雄氏も、昨年より元気になっていてくれた。良かったと思っている。私が傘寿のお祝いに送ったハンテンを着て見せて欲しかったが残念ながら日本語のよく話せない同伴者がおられたので、そちらの通訳に追われてできなかったようだ。私も残念だったが、兄貴も残念そうだった。その同伴者は蔡さんがボランティアで経営している日本語学習塾の生徒さんで、日本語の会話力はいまひとつだが、それを学びたいという強い意思を感じた。日本語を学んでくださることは有り難く、とても嬉しい。

5、24日の台湾台日海交会、25日の台湾中日海交協会主催の2つのパーティーは例年の恒例行事であったが共に楽しかった。ただ、出席者の人数が年々減っている。日本語世代の皆さん方の老齢化は避けられない事である。しかし、この立派な方々の存在が忘れ去られてよいだろうか。今回痛感したのは若い世代同士の交流も必要だということだ。日本の若い人たちに現地の言葉を覚えてもらい、現地の若者達とおつきあいをして欲しい。大いに語り合って欲しいその内容は「あなた方のおじいさん、おばあさんの世代はこんなにすばらしい方々だったんだよ!」ということである。日本の為によく働き、よく戦い、また日本の心を胸に秘めて戦後台湾の為に尽くした、この世代の方々のことは末永く顕彰して頂きたい。その為には、我々日本人がそのことを台湾の次の世代の皆さんによく語り伝える義務がある。その役割の一翼を荷うべきは我々団塊の世代であるが、私どもより残りの人生に時間的余裕のある若い世代の皆さん方にも努めて欲しい、とそう願っている。

6、その他、潮音寺での前原清美氏のお父様へのご供養・慰霊祭など、語弊があるがさわやかな涙を流させて頂ける、いつものことながら感慨深い事の多い旅行だった。

第11次 団員の声(感想文)全19件

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