団員の声(感想文)

第11次日華(台)親善友好慰霊訪問の旅に参加して

第四班 班長 篠原章好

第11次日華(台)親善友好慰霊訪問の旅(以下、慰霊訪問の旅という)への参加は、はじめての台湾の旅であった。〝世界で一番親日の国〟であることは聞き知っていたが、台湾についての詳しい情報も予備知識も殆どなかった。

不安をもって始まった台湾の旅は、慰霊巡礼と親善交流を目的とし、団長以下同じ気持をもって参加された32人の同行者に恵まれ、ガイドや添乗員の行き届いた案内や世話に支えられて、終ってみれば快適で有意義な旅となった。何よりも、現地各所での台湾の方々の親切は心に染みて忘れられない。

いま一つ、この度の4泊5日間の旅は、日本の台湾統治時代の過去の事実を見聞し、その真実に触れる貴重な機会となった。歴史の生き証人に会ったような感慨を覚えている。

以下、このことについて、二つのことを述べて〝旅行の感想〟に代えたい。

〈その一〉
大東亜戦争で従軍した台湾人元日本軍人軍属の戦死者が英霊として祀られ、毎年、関係者によって慰霊されていることや、台湾の地で殉じた日本人元軍人の遺骸が、地元の人々によって手厚く葬られ、その後、祭神として祭祀されていることを知り、大東亜戦争に対する台湾の人々の思いが忖度できたこと。

慰霊訪問の旅の最大の目的は、11月25日(水)、台中・宝覚禅寺の〝霊安故郷〟(李登輝元総統筆)英魂碑前で催される「台湾人元日本軍人軍属戦没者大慰霊祭」に参列することである。

〝霊安故郷〟英魂碑は、大東亜戦争を志願し元日本軍人軍属として従軍して戦死した人々を祀る場所を、台湾に設けたいという台湾人元日本軍人軍属の戦友会が、昭和62年(1987年)戒厳令が解除されたのを機に、その実現に取組み、日本の戦友会(中日南星会、中日海交会)の協力を得て、平成8年(1996年)11月25日、有末精三(元陸軍中将)の筆になる〝英魂観音亭〟を建立、その側に建てたものであり、毎年11月25日には恒例として、台湾戦友会の主催によって、「台湾人元日本軍人軍属戦没者大慰霊祭」が開催されている。

今年の〝大慰霊祭〟は、台日海交会の主催で、台湾駐日代表等の来賓の臨席と、台湾慰霊訪問団の他、愛知県尾張海交会や石川県海交会等の列席の下に、国歌(台湾・日本両国国歌)斉唱で始まり、海軍旗掲揚・敬礼、主催者(会長)挨拶・献花、参列各団体代表献花・祭文または追悼文奏上、台湾駐日代表献花・感謝と追悼の言葉、読経、英霊御位牌収納、献杯、主催者のお礼の言葉で終わり、次第に則り厳粛かつ盛大に執り行われた。この中で、台湾慰霊訪問団の小菅亥三郎団長によって、参会者の胸に響く格調高い祭文の奏上もなされた。

この主催者が、大東亜戦争に日本軍人軍属として従軍し、共に戦い国に殉じ戦友の御霊・英霊に対して、感謝の誠をもって慰霊・顕彰されている姿が印象的で、深い感動を覚えた。

翌日、慰霊訪問した烏来の〝高砂義勇隊戦歿英霊記念碑〟も、大東亜戦争で先住民高砂族によって編成された(志願による)高砂義勇隊の戦死者3千余柱の英霊の追悼とその功績を称えるため、高砂族の一種族タイヤル族の蕃社酋長ターナ・タイモ(元日本陸軍兵曹)の発願によって、平成4年(1992年)11月に建てられたもので、その後、毎年11月には慰霊祭が行われているという。

また、新竹・南天山済化宮〔11月25日(水)慰霊訪問〕では、靖國神社に祀られていた大東亜戦争で戦死した台湾出身の英霊2万8千余柱を分祀し〝英霊華蔵殿〟に祀り、霊牌を〝地塔〟に安置している。

一方、台中鎮安堂飛虎将軍廟〔11月23日(月)慰霊訪問〕や高雄・保安堂〔11月22日(日)慰霊訪問〕では、台湾の地に殉じた日本人や日本軍人の遺骸が、地元の人々によって手厚く葬られ、後に、祭神として廟・堂に祀られている。日本軍人戦没者に対して、崇敬の念を表し、敬虔な祈りを献じ続けて下さっている地元の方々に、深い感謝の念を覚えたしだいである。

これらのことから、日本の統治時代を経験した台湾の人々は、この戦争を些かも不正義の戦い(東京裁判によって固定化された日本の侵略戦争)とは思っていないのではないか。むしろ、大東亜共栄国の樹立を理想として掲げた、国を守るための戦争であったと信じて戦ったのではないかと思われる。

それ故にこそ、戦後60有余年を経た今も、日本軍として従軍した台湾の人々が、このことを誇りに思い、日本への愛情を持ち続けているのだと考えたい。

いま、あらためて、平成6年(1998年)の第8回「戦没者追悼中央集会」での黄昭堂博士(当時、昭和女子大学教授)の次の発言が、瑞々しく蘇えり強く胸を打つ。

〈日本が敗戦したと同時に、我々台湾も敗戦しました。靖國神社には台湾人の元日本兵士2万8千柱が眠っておられます。私はもちろん、台湾人の英霊だけでなくすべての英霊に黙祷を捧げました。

英霊たちは、侵略しているんだ、という気持を持ちながら戦いに出られたのでしょうか。違います。多くの兵士は、自分の祖国を守るために、あるいは、これからのよりよき世界を創るために、命を捧げられたのです。ところが戦後50年近くの間、日本は侵略国と罵られ、他人が罵るだけだったらいざ知らず、日本人自身が罵っております。こうゆう状態を続けて、果たして将来はあるのでしょうか。〉

〈隣は中国から、遠くはイギリス、アメリカ、スペイン、オランダみんな侵略戦争をやってきた国です。この国々が、いつ、どこで、謝罪をしましたか。なぜ日本だけが批判されなければならないのですか。〉

〈日本政府は台湾を無視しつづけて、どうして中共の顔色ばかり窺っているのですか。これが2万8千人の台湾人が尊い命を捧げた国の正体ですか。日本の国会が謝罪をすることは、日本の戦死者ばかりではありません、台湾人の戦死者への冒讀でもあることを銘記してもらいたいと思います。〉

日本人の一人として忸怩たるものを感じつつ、台湾の方々の思いを代表するこの心情に、誠実に応えなければならないと思う。そのためには、今更ながらも、日本人の一人ひとりが、〝明治以後の日本の歴史を一方的な侵略戦争と断罪する〟「東京裁判史観」の呪縛から、一日も早く解き放たれなければならないことを痛感する。

〈その二〉
日本統治時代、農業基盤整備のため大規模な灌漑水利工事を完成させ、台湾の発展に尽くした日本人技師の功績を称え、遺徳を偲んで、現地の人々によって建てられた日本人技師の銅像・技師夫妻の墓と、今も現役として残るダムを訪ね、先人の偉業を知るとともに、日本の台湾に対する統治政策の一端を垣間見ることができたこと。

台南の「烏山頭水庫(ダム)」を訪ねることは、この旅のもう一つの大きな目的であった。[11月24日(火)慰霊・見学訪問]
ダムの北岸に「八田與一・外代樹之墓」(「八田夫妻の墓」)が建てられ、墓のすぐ前には、作業服姿で腰をおろしダムを見下ろしている八田與一技師の銅像があった。

八田夫妻の墓は、嘉南の人々が夫妻の遺徳を偲び、昭和21年(1946年)12月25日、この地に建てたものであり、八田與一技師の銅像は、八田の功績を永久に記念するため、昭和6年(1931年)、地元の人々によって建てられたものが、戦争末期の金属供出を避けるために隠され、また国民党政権下では、日本人銅像や碑類の破壊から守るため密かに保管され、昭和56年(1981年)1月になって、人々の前に再び姿を現しここに建立されたという。

「八田與一・外代樹之墓」の前では、この墓が建てられた翌年の昭和22年(1947年)から毎年、八田與一の命日(5月8日)には、嘉南大圳農田水利会が主催する八田與一技師の慰霊追悼式が行われている。

近くに、八田技師の業績・遺徳を後世に伝えるための「八田技師記念室」が平成13年(2001年)5月8日に開設されていた。

ダムに続く道路脇の高台には、昭和5年(1930年)5月末に、烏山頭交友会(会長:八田與一)によって建てられた「殉工碑」(工事のため亡くなった日本人・台湾人とその家族等134名の名前を差別することなく刻んでいる)がある。

この道路の奥に「珊瑚潭」とも呼ばれている「烏山頭水庫(ダム)」があった。静かに水を湛えている土堰堤式ダムこそ、八田與一技師が計画し、精魂を傾けて建設した、当時、東洋一といわれた巨大ダムである。

八田與一技師について迂闊なことながら不勉強であり、1年半前までは名前すら知らずにいた。「心底から台湾を愛し、台湾で最も愛されている日本人である」ことも、このたび初めて知った。

元台湾総統李登輝氏は、八田與一技師の業績を称えて台湾に寄与した日本人の第1位に挙げているという。

あらためて、八田與一の偉業をなぞってみる。

八田與一は、明治19年(1886年)石川県金沢の生れ。東大で土木工学を学び明治43年(1910年)25歳で卒業。卒業と同時に台湾総督府土木技師として赴任した。

台湾総督府の技師八田與一は、「嘉南平野開発計画書」を作成。その内容は台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭で川を堰止めて、嘉南平野(面積約15万ヘクタール)の水源として巨大なダムを造り、同平野に大小様々な給排水路(総長1万5千粁に及ぶ:万里の長城の長さの約6倍)を張り巡らすという壮大な計画であった。

この計画書は総督府に認められ、大正6年(1917年)に詳細な現地調査と測量に入り、これを経て大正9年(1920年)9月に、この大規模な灌漑水利工事が着工された。八田技師は請われて総督府を一旦辞任し、この工事の責任者(所長兼監督)となって工事全般の指揮をとり、幾多の困難や障害を克服し、10年の歳月と5400万円の巨費をかけて、昭和5年(1930年)に完成させた。(八田は大正10年4月、烏山頭の宿舎に家族とともに移り住んでいる。35歳のときであった。)

この工事の完成によって、それまで不毛の地といわれた嘉南平野は、肥沃な地となり台湾最大の穀倉地帯(台湾農地の6分の1の広さ)に生れかわり、約100万人の農地に恩恵を齎すことになった。

嘉南平野に張り巡らされた給排水路と烏山頭ダムを総称して「嘉南大圳」といい、この水利事業を自らの使命として、心血を傾注し、常に工事の先頭に立って作業員と共に汗を流し、遂に完成させた八田與一技師は、地元の人々に「嘉南大圳の父」と慕われている。

因みに、八田技師の台湾農業への貢献はこれだけではなく、農地の地質の改良、農業知識の普及・増進による生産性の向上、三年輸作法の考案など多方面にわたっていた。

ところで、水利事業は、農業基盤を整備する国の重要な事業の一つである。嘉南大圳にみられる大規模な灌漑水利工事も、当時の台湾統治政策として行われた代表的な工事であったことが推察され、ここに優れた人材・八田與一の活躍があったと見るべきではないか。

八田與一が技師としてかかわった偉業を通して、日本の台湾での統治政策の一端が垣間見えてくる。このことから、日本の台湾統治の実態は、戦後教科書に書かれている圧政と収奪・掠奪と隷属の状況ではなかったのではないかということが考えられる。

11月23日(月)、台南の〝奇美博物館〟を訪ねた。この博物館は、奇美実業会長によって建設(「企業活動の利益は社会に還元すべきだ」という理念に基づいて)されたもので、入館料は無料である。

8階建てのビルの5~8階に、蒐集された数多くの絵画、陶磁器、彫刻、古武具、楽器、古民具(家具)や鳥・動物の剥製などが展示されていた。許会長が尊敬されているという後藤新平、八田與一の銅像や、日本刀、鎧等も収蔵・展示されており、許文龍氏の日本文化に対する造詣の深さや、日本精神への思い・親日の心情が窺えてならなかった。

展示品鑑賞の最中、慰霊訪問の本隊とはぐれてしまい、許会長の挨拶・お話を聞くことができなかったが、お土産として惠贈いただいた『台湾の歴史』(許文龍氏の社員教育講座での講演録等を集録した小冊子)は、歴史の生き証人を得た思いがしている。

この小冊子には、日本が台湾統治時代に台湾に対して行った、統治政策が具体的に公正な立場で語られている。

これによれば、日本は台湾を日本の領土の一部と考えて、莫大な人力と財力を注入して社会基盤・産業基盤の整備を進め、さらに、治安の安定、衛生・医療の向上、教育の普及、法制度の確立を図って諸施策を推進したという。

また、台湾統治のために優れた人材を派遣したが、彼らの多くは日本精神(武士道)を備え、清廉で遵法精神に徹し、高い志・使命感と溢れる情熱、深い愛情をもって施政にあたり、また、職務に励み尊敬と信頼を集めた。

日本の台湾統治にあっては、「一視同仁」の理念があり、基本的には台湾人と日本人の間には大きな差別はなかったともいわれる。

つきるところ日本による台湾統治は、台湾の人々を日本に同化させ民生を向上させるとともに、台湾の近代国家の基礎づくりを果したと見ることもできる。

親日的な台湾の人々の日本人への不満は、日本の統治時代に対してではなく、戦後、簡単に台湾を切り捨てたことに対するものだという。

今度、台湾を訪ねて、このような歴史の事実に無知であることを知った。このことにまず驚くとともに恥ずかしくも思っている。

心から日本と日本人を敬愛し、日本人であったことを誇りとされている許文龍氏の、次の忠告の言葉を励ましとして聞こう。

〈日本に望みたいことは過去に対する自信を取り戻してほしいということですね。それには過去に対する正しい認識を確立することです。黒船・明治維新から現在に至る日本の歴史を振り返ることが大切だ。大東亜共栄國という構想は間違っていなかったことをもう一回政府あたりがきちんと説明すべきですよ。

やはり、ここでもう一度植民地時代の台湾をどうだったのか、当時の日本人がどんなことしたのかを勉強し直してほしい。戦前のことを頭から間違いだと思わないで、そこから将来に進むべき道を探し出してほしいと思います〉

今回の台湾慰霊訪問の旅は、日本人としての目覚めと気付きの旅となった。「東京裁判史観」の刷り込みによって「大東亜戦争史」が否定され、「太平洋戦争史」が強制されていることにすら無抵抗であった。確かな史実に基づく正しい歴史認識が必要なのに。

当面の最大の課題は「東京裁判史観」から如何に解放するかである。いま、「大東亜戦争史」を学ぶことの必要性に気付いた。このことの意義は大きいと思う。

最後に、このような価値のある台湾との交流事業を創始され継続されている小菅亥三郎団長の崇高な理念と卓越した実行力に、心から敬意を表すると共に、事務局の皆様方の心の行き届いたお世話に対し、深い感謝の念を捧げ、本事業の今後のさらなる充実と発展をお祈り申し上げます。

また、お世話になった台湾のすべての皆様に、厚くお礼を申し上げ、日台の交流が一層深化されるようお祈り申し上げます。

慰霊訪問の旅にて
冬の巴士わだつみの声聞こへしか(墾丁・ガランピー岬)
鎮魂の花漂へり冬の巴士(墾丁・巴士海峡)
冬日さす「嘉南大圳」父の像(台南・烏山頭水庫)
戦友(とも)集ひ御霊を祀る小春かな(台中・宝覺禅寺)
冬の峰戦士の御霊讃へけり(烏來・高砂義勇隊戦没英霊記念碑)

第11次 団員の声(感想文)全19件

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