団員の声(感想文)

第11次日台親善友好慰霊訪問団に参加して

第一斑 副班長 古賀誠

訪問団参加は2回目なので、ここでは初めて訪問した2箇所、台湾南端の鵝鑾鼻と台北郊外の高砂義勇隊戦没英霊記念碑を中心に記したい。台湾南端の岬鵝鑾鼻(ガランピー)の灯台下からはフィリピンとの間のバシー海峡が見下ろせた。この周辺の海で大東亜戦争末期に多くの人命が失われた。以前の戦争では軍隊と軍隊との戦いだったのだが、大東亜戦争では軍艦のみではなく多くの輸送船・貨客船までが攻撃の対象とされた。この事は日本本土への連合国の無差別都市爆撃や原子爆弾投下とも軌を一にする。制空権・制海権を連合国側に握られた後、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて付近で沈められた船は5,000トン以上の大型船舶だけで200隻以上、海底に沈んだ軍人、邦人は25万人以上とされる。当時付近の海岸には多くの遺体が漂着し、地元の人々が荼毘に付し埋葬した。

昭和19年8月に撃沈された玉津丸から12日間漂流し、九死に一生を得た中嶋秀次氏(静岡市在住)の私財を中心に作られた基金を使って、1981年に近隣の猫鼻頭(マオピートゥ)の海浜近くに土地と寺が寄進され、仏教寺院の潮音寺が建てられた。そして毎年慰霊祭が行われ、毎年200~300人の日本人遺族が慰霊に訪れている。私たちの訪問団にも遺族の方が参加しておられて、一緒に潮音寺で慰霊祭を行い、また海へ向かって花束を投げて霊を弔った。

この潮音寺の管理は台湾人が全くの好意から自費でなさっているという。だが終戦から64年が経過して、潮音寺の建っている土地の登記が不十分だった為に、地権者の代替わりに伴って土地が第三者に転売され、潮音寺の存続は予断を許さない。

万一の場合取り壊されて民宿に建て直されるかもしれないという。

次に台北郊外烏来(ウーライ)の高砂義勇隊戦没記念碑について書きたい。高砂族とは台湾の高地原住民(生蕃)の日本的呼称である。昭和17年頃になって台湾でも兵隊募集が始まり、300~600倍の志願者があったという。高砂特別志願兵は7度にわたって編成され、合計6,000~8,000名が参加した。高砂義勇軍は大東亜戦争末期にフィリピンなど南方の戦場に投入され、主に軍属として戦闘にも参加し、特に南方戦線では勇敢で高い戦闘能力を発揮して日本陸軍を助けた。戦死者は約3,000人にのぼった。

1992年原住民の子孫周麗梅(看護婦さん)によって高砂義勇軍戦没英霊記念碑が建てられ、維持管理されていた。しかし敷地を提供していた観光会社がSARS流行時の観光客減少で倒産した。このニュースは産經新聞に報じられ、日本で募金された3200万円余を使って慰霊碑は2006年2月県有地に移された。しかし、地元の中国時報が慰霊碑の碑文が日本を賛美していると報道したことから、碑文は竹柵で覆い隠されてきた。

今回の訪問ではやっと竹柵が外されており、慰霊碑全体を確認できた。特に慰霊碑の基部に東京の方向に向けて設置されている元台湾軍司令官本間雅春中将(B級戦犯としてマニラで処刑)の歌碑「かくありて許さるべきや密林のかなたへ消えにし戦友(とも)を思えば」にも対面が叶った。なお、周辺は県立公園としての整備工事が進行中だった。

総統が國民党の馬英九に代わった後、本年6月には尖閣諸島周辺で日本の巡視船と接触して台湾漁船が沈没する事件があり、台湾は「日本との戦争を辞せず」と一時エキサイトした。しかし、その後は沈静化して日本との連携を重要と考え始めたようで、最近総統は「日米安全保障条約はアジアの安定に重要」と述べたと伝えられている。台湾での世論調査を見ても「日本に親しみを感じる」が69%、「大陸中国は非友好的と考える」52%、「中国への統一賛成」は9.8%と1割を切っており、世論の現実を國民党も無視できないようだ。大陸中国から執拗な圧迫を受けながらも、「台湾の主人公は台湾人だ」としぶとく頑張っている。

日清戦争後の下関条約交渉時に李鴻章が「化外の地(文化文明の外の土地)」と表現した未開の地台湾を、日本は統治した50年間に莫大な国費を投じて南方の要として整備した。マラリアなどの風土病やアヘンの撲滅、病院・医学校の整備、教育の普及、上下水道や道路・鉄道・港湾・ダム・発電所の建設、製糖業の振興、蓬米など品種改良、金融機関の整備など近代国家の基礎作りを進めた。他に日本が台湾に齎した大きな影響は法治国家として遵法精神、清潔、公平、責任感、勤勉および誠実さなどと言われている。元台湾総統であった李登輝氏は日本精神の中心は武士道であり、その真髄は「正直で嘘をつかない事だ」と看破しておられる。

残念ながら日本は大東亜戦争に敗北し、マッカーサー元帥の命令で台湾は國民党蒋介石に託された。しかし國民党によって光復(名誉ある祖国への復帰)のスローガンのもとに行われた人治政治は、密告・密殺・賄賂が横行する恐怖政治〈白色テロと表現される〉であった。1947年に起こった二・二八事件では政府発表で3万人以上、民間の推定では5万人以上が殺された。治安の悪化の為に日本統治時代には生け垣で住んでいた民家の周囲に、國民党時代にはコンクリート壁を作って、その最上部にはガラス片を張り付け、窓には鉄格子が必要になったという。

國民党一党独裁のもと戒厳令は40年間続き、1987年に李登輝氏らの努力によってやっと解除された。この國民党時代の影響なのだろう、現在の台湾国旗(國民党の青天白日旗)は11月25日に日台合同の慰霊祭(台中市宝覚寺)で見た他には、官庁を除けば街中に見掛けなかった。国旗は店でもほとんど売られておらず、お土産でも国旗の描かれたものは捜し出せなかった。台湾住民の複雑な心情が垣間見られた。

終戦後國民党の命令で日本本土へ強制帰国させられた日本人は軍族約16万人、民間人約20万人で、1人当たり1,000円の所持金と行李2個の身回り品の持ち帰りが許されただけで、土地家屋や宝石貴金属、カメラなど私有財産の他、多くの会社企業も全て没収された。その総額は当時のお金で109億円とも156億円とも言われる。この私有財産の没収は明らかな国際法違反である。没収財産は國民党一派が山分けして、國民党現有資産約2兆5000億円の原資になった。なお、私の義兄の一家も当時の台湾からの帰国者である。

戦後日本本土の国籍者は日本に強制帰国させられたが、台湾に残った内省人はすなわち「帰らなかった日本人」である。台湾が辿ってきた歴史を見れば、台湾人が親日的な理由をよく理解できる。何はともあれ、着々と軍備を増強する権略詐謀の帝国主義大国、中華人民共和国に近接している島国の台湾と日本が、将来何時まで生き残れるか危惧されるが、台湾の運命はすなわち日本の運命であることは確かである。

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