団員の声(感想文)
慰霊訪問はご縁をつくり、深める場所
第四班 副班長 松下美佳
3回目の訪台、3年ぶりに訪問団に参加させていただいた。台湾の方々から頂戴した山のような台湾土産を前に、帰国後1週間経ってもまだ心に余韻を残している。年に1度の私たち団員との再会を弾けんばかりの笑顔で迎え、会うや否や直ぐに胸に飛び込み抱きしめてくれる台湾の方々の底抜けの明るさは時を経ても全く変わっていなかった。初参加時には、台湾の方々のそのエネルギッシュな自己表現にいささか驚きもしたが、いつの間にか私自身がすっかり溶け込んでおり、日頃一歩を臆してしまう私には自分を解放できるかけがえのないひとときである。
領台の初めの頃には、戸惑いも衝突もあったが、最終的には日本人と台湾人が同じ国民として最大の信頼を築きあげ生きていた時代があったことを、無条件に納得させられてしまうのだ。台湾人は、私たち日本人とは性質も価値観も違う。しかし、訪台の度にその差異をむしろ楽しんで見ている自分を感じる。そして台湾の方々の魅力に惹きつけられていくのである。やはり、日本人と台湾人は真の仲間であり、心の家族である。自然にこういう思いに至れる国が他にあるだろうかとつくづく思う。中国や韓国のように、そしてまた日本人の中にも存在する反日勢力による目に余る日本への嫌がらせが横行する中、この同胞のような信頼感を抱ける日本と台湾との関係は国際社会の中ではおそらく稀であり、政治の面でも即刻協力し合うことを望まずにはいられない。
領台時代の日本人を手厚く祀る保安堂、飛虎将軍廟、東龍宮、そして当時の日本人の功績が偲ばれる烏山頭ダム、日本人兵士、台湾人兵士を祀る宝覚寺と濟化宮、日本兵に届けるための食料に一切手を付けずに、山中にて餓死していたという忠義と誇りの精神に満ちた高砂義勇隊の郷、烏來を今回もまた新鮮な心持で巡った。そして、今回は初めて二峰圳という地下ダムを訪ねた。このダムについて少し調べてみたのだが、これには烏山頭ダム建設にも共通した、日本人の一流の技術が駆使され、またその課程に築かれた台湾人との深い結びつきによる協力関係によりその完成に至ったのである。この地下ダムに対して、4年前に初めて雄大な烏山頭ダムを目にした時と同じ感動と誇りを感じた。
二峰圳は「台南の宝」とも呼ばれており、大正12年日本人技師鳥居信平により屏東県に造られ、現在も20万人の飲料水と灌漑用水を賄っている。当時そこは旱魃と洪水を繰返す土地で、少ない水でも育つ粟、芋、落花生の栽培が主流であったが、この工事の結果、稲が植えられるように変化した。また旱魃期でも栽培が可能になった為、サトウキビの収穫量はぐんと上がり、その後新たに農場が開設され、洪水や旱魃で土地を失った農民を入植させ、家屋、農地、耕作機械、水牛を貸し付け、農家の人口が増加したという。
また洪水と旱魃を繰返した土地は、大小の石が硬く積もった荒蕉地であり、掘削は人力では不可能で、機械を用いて掘り、その石を手作業で運ぶという過酷な工程を実に14万人もの日本人と原住民が協力し合い完成させ、そこには一切のトラブルは無かったという。なぜならば、ダム工事着工にあたり、原住民の部落を鳥居信平が自ら回り50人の頭目と会い、ダム建設の計画を丁寧に説き綿密に進めるという努力があったからだ。
この工事により実施された「輪作法」をさらに深く研究し、大規模に実施されたのが、あの八田與一が建設した東洋一の烏山頭ダムなのであるという。今回も烏山頭ダム建設で犠牲になった日台の人々を祀った殉工碑に手を合わせてきたが、鳥居信平、八田與一が台湾の人々を心から愛し、台湾の生活を豊かにすべく、日台互いに手を取り合い困難な技術を駆使して、広大な事業を成功に導いたことに改めて胸が熱くなる。
帰途、松山空港へ向かう車中で、日本の大学に留学経験を持つガイドさんに色々な質問をした。その中で強く印象に残ったのが「台湾の教育は家庭が重要である」ということであった。このことは一見、日本とも同じであるように思えるが、それは違うのだ。台湾では、戒厳令の下に台湾の歴史を教育されずにいた時期があったが、そのような中でも台湾人は教科書によって教えられた歴史を偽りのものと認識しており、台湾と日本との関係についての歴史教育は各々の家庭でなされていた。したがって、現在台湾には親日家が多いのであるとのことだった。そして彼らが1番に留学先に選ぶ国は日本であり、それは日本を好きだからだという。
私は日本の良いところを聞いてみた。すると、それは時間の感覚がしっかりしているところだそうだ。しかし、その日本人の細やかなところは海外ではマイナス面にもなるという。それは、日本人は外国においても、その土地の風習に馴染もうとせず要求が多いそうである。しかも語学力が弱いこともあって、相手にその意図が伝わっていないのに要求が通らないといって怒る傾向にあるとのこと。また台湾では基本的にチップは不要だが、ホテルマンの業務の範囲以上のことを要求する場合においてはチップが必要になることもあるとのことだ。しかし日本人はこれを知らずにチップを渡さないこともあるそうである。要するに勉強不足なのである。
思い返せば、松山空港まで話を聞かせて下さったガイドさん、ホテルの部屋を共にした黄さん、行く先々でお会いした台湾の方々、どの方とも私は台湾の方であることを忘れて会話に夢中になっていた。
そして今回は私にとり特別な出来事があった。それは私が所属し、活動している「而今の会」の同士の御家族と台湾でお会いすることができたことである。この同士は台湾に生まれ、現在は帰化し日本で暮らしているのだが、台湾に暮らす日本語世代の御両親が日本人が大好きで、日本人の友人を欲しがっているとのことだった。その希望が今回、訪問団との合流といった形で叶ったのである。
初めて訪問団に参加した時にできたご縁は、有り難いことに現在も繋がっており、それは益々、強固なものとなって、共に楽しむ事は勿論、人生の先輩として私の生き方の助けとなり、刺激という大きな影響力となっていることに今更ながら驚かされる。この旅は台湾を巡り、台湾人と日本人の歴史を知り偲ぶだけではなく、そこで知り合った同じ志を持つ方々とのご縁をつくり、深める場所でもある。そして自分の人生を豊かにすべく活かしていきたいと、まだ残る台湾の余韻の中でつくづく感じている。
第15次 団員の声(感想文)全14件
- 台湾は何回訪問しても胸に刻まれ、各地の思い出と名残りも盡きない感動の訪問団(永石辰郎)
- 台灣によせる強い思い(松俵義博・松俵茂子)
- 台灣先住民たちの民族の誇り(永田昌巳・永田タマミ)
- 日本と台湾を結びつける「天皇陛下万歳」(木村秀人)
- 台湾に学ぶ日本人の誇り(吉武勲)
- 『日本の宝』があるうちに(原田泰宏)
- 軍歌は日本と台湾がひとつの国として過ごした頃の思い出(桐野隆徳)
- 旅行ケースに日の丸を納めての訪台(村山淳)
- 教育の正常化を目指して(井上誠二)
- 海の彼方のニッポンへ(石川秀久)
- 慰霊訪問はご縁をつくり、深める場所(松下美佳)
- 15年の魂の交流を実感(永濱浩之)
- 台灣よありがとう(中村哲)
- 多くの気づきを与えてくれた慰霊訪問(佐竹聖子)