団員の声(感想文)

海の彼方のニッポンへ

第三班 副班長 石川秀久

昨年に続き慰霊訪問団に加えていただき、参加出来ました事を感謝申し上げます。それと共に、心をひとつにして交流を図りながら慰霊の旅を無事に終えることが出来まして、団長はじめ事務局の方々、そして団員の皆様方にお礼申し上げます。

私は今回で2回目の参加ですから、分からない事の方が多く、色んな事を発見する旅でもありました。

先ず、忠烈祠と中華民國外交部の訪問でした。昨年も外交部に行き「海ゆかば」を唱って内心驚きましたが、今年は軍艦旗を立てての忠烈祠への参拝訪問となりました。忠烈祠では、我々訪問団を特別に遇して出迎えて頂き、本殿の奥まで招き入れて頂き参拝することが出来ました。本殿では、団長が諸外国からの要人賓客が行うと同様に献花礼拝が出来た事に、台湾の懐の深さを感じました。このような事はやはり、15年に亙る訪問団の地道で着実な実績の積み重ねの結果であろうと改めて思った次第です。

台湾を敵と思った事は今まで1度もありませんが、中華民國(蒋介石政権)とは確かに戦っていますので、忠烈祠に日の丸や軍艦旗を立てて入って行くのはどうなのかなと思っていました。しかし、このことは私の杞憂であることが分かりました。軍人のみならず昔の人の感覚では、戦いは戦い、決着がつけば一視同仁の考えがあったのではと思います。
『♪昨日の敵は今日の友・・・我はたたえつかの防備・・・』(水師営の会見)

過日の日曜討論で木村副団長が発言しておられましたが『戦に負けただけ、大義は失っていない、先人たちの不名誉ではない』まさしくその通りだと思います。負けたことが全て悪のように今まで思っていましたし、悲しいかなそのように教えられ、偏った報道を真に受けておりました。最近の「恨みは1000年…」と言う隣のおばさん大統領の呆れ果てた発言を聞くにつけ、腹が立つのを通り越して、このような大統領を持った国民の不幸に同情を禁じえません。(もっとも、民度[国民]に応じた政治しか持てないとも言われますので、我々も他人事でなく、過去の民主党政権の轍を踏まないように、マスコミ報道も含めて真剣に考えなければと思います)

また、台湾の先輩方(元日本国民)も、たった1回の戦争に負けただけじゃないか。何を卑屈になるんだと海交会の皆さんとの交流でも言われますし、本なども多く目にいたします。

『日本は領台時代に善政を布いて良い事を多く行ってくれたが、唯一の失敗は戦争に負けた事だと…。』

この意味する所は、当方初めは良く分かりませんでしたが、団長が仰るように長い人で50年間日本人として育てられ、ある日突然に日本人ではないと言われれば、その衝撃は想像を絶するものだと思います。今でもアイデンティティーを日本に置いている台湾の方々は、本当に白色テロ等の圧政時代を良くぞ切り抜けて来られたと思います。我々はその間、連合国の占領政策に嵌り、大事なものを忘れて経済発展だけを追及していたように思います。恥ずかしい限りですが、個人的には台湾を訪問して改めて日本を見直すことが出来て(大東亜戦争、東京裁判、自虐史観、戦後教育、偏向報道、戦前の日本人の生き方等々)本当に良かったと感謝しております。

今年の訪問先も素晴らしい所ばかりで、中でも二峰圳(鳥居信平)と烏山頭ダム(八田與一)は訪台前から期待をしておりました。二峰圳は本を読んでも凡人には中々理解ができませんでしたが、百聞は一見に如かずの通り、全容までは分かりませんでしたが、概要は理解できた気になっております。現地で遠くに見える山並みを見てあの辺りまで踏破して多分伏流水の水速を掴んで来たのだろなと感慨も新たにいたしました。資料から窺うと2年余に亙り反感を持つ原住民、毒蛇や風土病が猛威をふるっている中を良くぞ調査したものと感心します。特にその設計思想は生態系も維持し、自然と折り合う地下ダムで、原住民の生活も壊さずに築きあげ、しかも川の水を濾過する考えは本当に凄いの一言に尽きます。(思うに、このような智恵が現代の諫早干拓事業等にもあればと思いましたが…)

若い頃から「全て戦前の日本が悪かったのか?」と常々疑問に思っておりました。戦争ですから光と陰はつきものですが、中国、韓国が、或いは偏向したマスコミが言う事が正しいならば、我々の父母や祖父母の生きてきたことは否定され、報われないと思います。大叔父も台湾製糖で仕事をしていましたし、今回萬隆農場を訪れ、きっと大叔父も見たであろうマホガニーの大木を感慨深く見ました。叔父も台北の高校を卒業し、母の実家には台湾から留学生が下宿していた様で、今更ながら台湾とご縁があることを感じます。現在のわが国でもそうですが、そんなに醜い差別はないと思います。ただ、人の道を外れたり、周囲に迷惑をかけると確かに軽蔑はされると思いますが、それは自業自得だと思います。

私の祖父は阿蘇の山奥の出身で、当時ですから学歴こそありませんでしたが、内務省に入り、西日本各地で或いは朝鮮でトンネル等の土木工事に携わっていた様で、朝鮮語も使いこなし、朝鮮の人たちと分け隔てなく暮らし、仕事をしていたようです。

今回、烏山頭ダムの殉工碑の物故者氏名の順番を団長より伺った際に、日本と台湾と区別しないで亡くなった順で記されていた事に大いに感銘を受けました。この様な精神が烏山頭や台湾各地、或いは朝鮮、満州、樺太、南方諸島などで発揮されたものと思います。確かに後藤信平や八田與一をはじめ政府高官や民間会社の著名な方々も大変な事業を成し称賛するべきと思いますが、平凡な名もない日本人や台湾人のひとりひとりが真面目に努力したことをやはり忘れてはならないと思い、また誇りにして良い事だと感じました。

今回の海交会との懇親会で元教師の方とお話をすることが出来ました。その方が仰るには、東日本大震災の時に被災者が整然と列をなし、お互いを労わっている姿に感激して、さすが日本と涙してテレビを見たと言われて、私の方がびっくりしてしまいました。
国難に顕れ出づる本性の美しきことに心動きぬ(歌集 香る園 蔡永興さん作)

領台時代の教育の凄さだと感じました。しっかりとした気概を持った昔の日本人に会いたいならば台湾に行けば良いと思いました。父母や祖父母に久しぶりに逢ったような気になった人は私だけではないように考えます。

まさしく海の彼方のニッポンでした。

第15次 団員の声(感想文)全14件

訪問次で探す

お問い合わせお問合せ