第20次 帰朝報告

期間:平成30年11月22日(木)~11月26日(月)

参加者:73名

11月25日(日)

慰霊祭存続の危機 継承が喫緊の課題

慰霊訪問の旅の最大の目的である台湾台日海交会主催の「原台湾人元日本兵軍人軍属戦沒者大慰霊祭」に参列するため、ホテルを出発して宝覚寺へ向かいました。到着すると、先ず境内の一角にある「日本人遺骨安置所(日本人墓地)」で慰霊式を執り行いました。墓前に整列し、国旗敬礼、国歌斉唱、黙祷に続き、横尾秋洋顧問が献花、挨拶をされ、その後、兵庫県から参加の真言宗僧侶、槙尾亮順氏の読経が流れる中、団員全員が線香をたむけ、回向しました。慰霊式を見守っておられた日本人観光客の方々にお声を掛けると、多くの皆さんが一緒に献香して下さり、同じ日本人としてこの日本人墓地の存在を知って戴き、台湾の地で亡くなられた多くの先達のことを心に留め置いていただければと思いました。

日本人墓地での慰霊式を終え、霊安故郷碑前の慰霊祭の席に着くと、訪問団員の数に比して、ご遺族、戦友会の皆様の少なさを昨年以上に感じました。次世代への慰霊祭の継承は喫緊の課題であり、日台双方で実践していかないと先細りし、衰退の運命をたどりかねません。

慰霊祭は、儀仗のラッパで開始され、日台両国の国旗掲揚、国歌斉唱、軍艦旗掲揚、主催者を代表して台湾台日海交会の周良仁会長の挨拶と続きました。周会長が挨拶で「台湾でのこの祭礼を、日本に帰られたら一人でも多くの日本人に伝えて欲しい。そして皆さん後を頼む!」と涙ながらに、私たち慰霊訪問団に何度も訴えられた背景には、この現実があり、嘆きの声に胸を抉られる思いでした。

その後、献香、献花、献菓と進み、小菅団長の祭文奏上が行なわれました。最後は全員による「海ゆかば」の合唱で締めくくられましたが、万感胸に迫るものがありました。台湾の皆さんと一緒に記念写真を撮り、境内を散策し、台湾台日海交会主催の歓迎昼食会に臨みました。

会場に着くと、既に台湾の皆さんが待っておられ、熱い拍手で迎え入れられました。台湾の皆さんの熱烈な歓迎振りは何年経ってもいささかも変わりません。周会長の主催者挨拶、小菅団長の答礼の挨拶で開宴となり、各テーブルで話が盛り上がりました。1年振りの再会の方々も多く、旧交を温める姿があちこちで見られました。団員の石橋三之助氏によるお謡い「高砂」の披露、甲飛喇叭隊による軍隊式ラッパの説明など、あっという間に時間は過ぎて行きました。宴たけなわの中、周会長が挨拶に立たれましたが、本当に名残惜しくて仕方ないご様子で、声を詰まらせておられたのが強く心に残りました。1年後の再会を固く約し、後ろ髪を引かれる思いで会場を後にしました。

慰霊団の到着を待っておられた94歳の蕭鸞飛さん

台中を発って2時間ほどで次の訪問先である濟化宮に到着しました。あいにくの小雨まじりでしたが、いつもの様に謝鏡清董事長とお宮の皆さんが笑顔で出迎えて下さいました。本殿で謝董事長の説明を伺った後、小菅団長が祝詞を奏上し、全員で二礼二拍手一拝でお参りし、班長を代表して第四班の湯下雅俊班長が献花、挨拶をして献花式を終えました。献花式後、靖國神社から分祀された4万余柱の霊璽を拝見させて戴き、ご英霊に追悼の誠を捧げました。

献花式を終えた小菅団長に声を掛ける一人の老人がいました。94歳になられる蕭鸞飛さんでした。どういう経緯で慰霊団がこの日のこの時間に濟化宮を訪れることを知ったのか判りませんが、毎年英霊の慰霊に訪れる団長に一目会いたいと30代のお孫さんと待っておられたそうです。団員の皆さんへと、手作りの資料を携えていました。

社務所の前で、いつもの美味しいお餅とお茶をいただき、山門で記念写真を撮った後、バスで新竹駅へ向かいました。新竹駅で新幹線に乗り換え、台北駅に到着後、黄文雄先生主催の歓迎夕食会の会場「紫都」を目指しました。

慰霊訪問事業の最強の支援者黄文雄先生

会場に着くと、黄先生をはじめ、この日のために海外や台湾各地から馳せ参じられた各界を代表する方々が待っておられました。第15次訪問以来、毎年このような場を設けて一行を歓迎して下さる黄先生のご配慮に感謝すると同時に先生のご人脈の広さに改めて敬服しました。

黄先生の歓迎の辞に続いて、元駐日經濟文化代表處代表の羅福全氏が挨拶され、小菅団長の答礼の辞の後開宴となりました。病気療養中と伺っていた台日文化經濟協会の名誉会長黄天麟氏のお姿もあり、少し安心しました。

前日の統一地方選で民進党が議席を大幅に減らしたにも拘わらず、それを跳ね返すようなパワーで大いに盛り上がりました。歓談が一息ついたところでお開きとなり、この日の宿泊先である三徳大飯店に帰り、旅の疲れを癒しました。

(文責:原田和典)

帰朝報告の系譜

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