ごあいさつ
日本と台湾との関係は123年前に遡る。明治27年7月我が国は朝鮮の独立をめぐって清国と戦端を開きました。8ヶ月に及ぶ戦いの末すえ勝利、翌28年4月台湾が我が国に割譲されました。以後、昭和20年8月15日に大東亜戦争で敗れ、ポツダム宣言を受諾し、台湾の主権を放棄するまでの50年間我が国は台湾を統治しました。清国から「化外の地」と言われていた台湾に我が国の父祖は莫大な国費を投じ、風土病の撲滅・公衆衛生の推進、教育の普及、殖産興業、社会資本の整備を行い、近代国家の礎を築いたのです。
しかし戦後、支那大陸で毛沢東率いる中国共産党との戦いに敗れた蒋介石の國民党が台湾に逃れ、それに伴い大陸から多くの外省人が流入し、本省人(父祖の時代から台湾に住んでいる人)との間に様々な軋轢を生み出しました。24年には全土に戒厳令が敷かれ、やがて日本語・台湾語の教学禁止令が布告、反日教育が進められていきました。また47年の日本と中国との国交締結に伴い、台湾との国交は断絶。以後、日本との公式な交流は途絶えてしまいます。しかし、63年に李登輝総統が登場し國民党一党支配の政治は終焉、台湾は一気に民主国家へと突き進みました。国交断絶後も民間レベルで続いていた日本との文化・経済の交流は更に加速され、今日に至っています。
21世紀のアジアの平和と繁栄は、日本と台湾との強固な関係なくしては存在しません。日華(台)親善友好慰霊訪問団(略称、訪問団)結成20年目の節目にあたり、台湾に父祖が築いてくれた遺産や歴史を正しく顕彰するとともに、一日も早い日本と台湾との国交正常化を願って訪台している私たちの活動をご紹介し、関係各位のご理解とご支援をお願いする次第です。
台湾人の英霊顕彰こそ日台の生命の絆
「日台の生命(いのち)の絆 死守せむと 吾 日本の一角に起つ」
霊訪問団の信条であるこの標語の通り、私たちが台湾を訪問する第一義の目的は、大東亜戦争で日本兵として亡くなられた台湾人3万3千余柱に、日本人国民として追悼と感謝の誠を捧げ、顕彰することです。
大東亜戦争が我が国の自存自衛とアジア解放であったことは歴史が証明しています。幾世紀にも及ぶ白人による植民地支配の歴史を終焉させ、民族の独立と自由を勝ち取る大義に、我が国の先人や父祖、当時日本領土であった台湾及び朝鮮の人々は立ち上がり、生命をかけて戦われました。大東亜戦争を経験した台湾の高砂族のある古老は次のように語っています。「我々は台湾に来たオランダにも鄭成功にも、清国に対しても屈従しなかった。しかし、日本だけは別だった。それは大東亜戦争の魅力に勝てなかったからだ。」
しかしこの崇高な行為に対して、戦後我が国は台湾の同胞に十分な償いをしていません。終後、インドネシアの独立に際して約2000人の日本人が現地に残り、蘭軍や英軍と熾烈な独立戦争を戦いその半数が生命を落としましたが、インドネシアはそれら彼ら日本人をカリバタ英雄墓地に祀り、最高の栄誉と感謝の誠を捧げています。一方、南北朝鮮では執拗な反日教育により我が国の真意と努力が〔国民レベルでは〕曲解されている点が多々あるものの、我が国は昭和40年の日韓基本条約締結で、朝鮮戦争で疲弊し尽くした国土復興のため巨額の支援を行い、経済再建・民族自立への道を提供しました。このことは大東亜戦争に尽くされた朝鮮人戦死者に報いる行為でした。
これに較べて台湾に対しては、戦後、蒋介石率いる國民党に支配されて以降、今なお「一つの中国」政策に縛られた我が国政府は「台湾は台湾人のもの」との声に耳を傾けていません。これではかつて我が国及びアジアの国々の独立の為にわが身を顧みず尽くしてくれた原台湾人の元日本兵軍人軍属の皆様に対して申し訳が立ちません。私たち訪問団は台湾を訪れる以上、それら台湾人同朋の英霊に日本人国民として追悼と感謝を捧げる行為なくして真の交流はないとの判断のもと、英霊顕彰を目的にした訪問団を結成することにしたのです。
英霊に導かれた私たちの訪問団
私たち訪問団の結成は平成11年です。毎年団員を募って組織し、昨年で20回目を数えました。これまでの参加者は第1次より第20次までで延べ714人、正味399人、滞在は3200人日です。(なお、冠婚葬祭まで含めますと延べ729人、正味399人、滞在3244人日です。)
さて、平成11年(第1次訪問団)は3月6日から9日までの3泊4日で実施されました。この訪問団の立ち上げに際しご指導戴いたのは、当時、福岡県郷友会事務局長の日高清先生でした。日高先生から「せっかくお金と時間をかけて台湾に行くのであれば団に名称をつけなさい。ただの旅行の一団では先方にも忘れられ、私たちの記憶も限りなく曖昧になってしまう。そして名称には必ず『慰霊』という文字を入れるように。これがなければ意味がない」とアドバイスを戴きました。第1回目(第1次訪問)は社員旅行を兼ねていたこともあり、団の命名にまで考えは及んでいませんでした。しかしそのご指摘を深く受け止め、団体の名称は「日華親善友好慰霊訪問団」と定めました。この命名によってこそわが訪問団の運命は予想を越えた展開をすることになります。英霊との深い関係が生まれていったことがその要因ではないかと思っています。
第1次訪問団の2日目のことでした。宿泊した台湾東部の花蓮から中央部にある日月潭へ向かう途中、太魯閤峡谷を通過しました。観光名所で有名なこの峡谷は、両岸を断崖絶壁が20キロにも亙って続き、その下を縦横に曲折する渓流が水しぶきをあげています。私たち一行のバスは、眼下に数10メートルもの崖を見下ろしながら山の中腹を縫うように走っていました。ところが、途中からバスの運転手は、私たちの前を走っていた遅い車による時間的遅れを取り戻すために、片側一車線の左右にカーブするこの危険な道路で、次々と前の車を追い抜く暴走運転を始めました。加えて眠気さましに檳榔椰子を齧り、その興奮も手伝って速度は更に上がり、心中穏やかならぬ団員の気持ちもよそにバスは猛スピードで急カーブに突入。
対向車との正面衝突は危うく避けましたが、その切り返しで谷側のコンクリート製のガードレールに衝突。バスの左前方部はガードレールを越え、峡谷の上にはみ出して止まる事故を起こしました。一歩間違えれば峡谷に転落、全員即死という大惨事でした。私たちは揺れるバスの後部の非常口から慎重に脱出しました。しかし、付近は人家もなければ携帯電話も届きません。日月潭に到着すべき予定の時刻は刻一刻と迫っているのに為す術がありません。そのときでした。1台の大型のクレーン車が偶然通りかかり、私たちのバスを道路に戻してくれ、料金も請求せず去っていったのです。
翌朝、代替のバスが手配されました。それは日本海軍の旭日旗を会社のマークとする朝日バスでした。後で分かったことですが、朝日バスの社長の蕭興従氏は、かつて大日本帝國海軍の軍属でした。私たち一行が台中にある宝覚禅寺の日本人墓地で国旗「日の丸」を掲揚して、国歌「君が代」を斉唱し、慰霊式を行っているときに、バスで待機していた運転手が私たちを日本から来た戦友会と勘違いされ、父であり社長である蕭興従氏に報告されたのです。日本に帰国した3ヵ月後の6月、蕭興従氏より11月25日に宝覚禅寺で実施されている慰霊祭の案内状が届きました。このとき初めて同日同場所で元日本軍人軍属による慰霊祭が行われていることを知ったのです。その年、次女と2人で訪台しそれに参列させて戴いたことを機に、翌年からの訪台は、11月25日の慰霊祭に合せて実施することにしました。
顧みれば、このとき太魯閤峡谷で事故に遭わなければ、クレーン車に助けられて翌日代替の朝日バスに出会うことも、蕭興従氏との知遇を得ることもなく、11月25日の慰霊祭のことも知らなかったのです。しかも不思議なことに蕭興従氏と私の父は終戦後、フィリピンにあった米軍のカランバン捕虜収容所に一緒に因われていたのです。ここまでの偶然があるでしょうか。私は第1次訪問を体験して余りにも度重なる偶然の多さに驚き、明らかに英霊の導きを確信した次第です。今思えば、「慰霊」の文字を掲げ日本人として亡くなられた台湾人軍人軍属に日本人国民として追悼と感謝の誠を捧げる訪問団の趣旨と行動を、心から歓迎し私たちと地元台湾の戦友会とを結びつけて下さったのは、ほかならぬ台湾人3万3千余柱の英霊ではないかと感謝しています。
宝覚禅寺の台湾人元日本兵軍人軍属戦没者大慰霊祭に参加
私たちの4泊5日(第10次訪問団より)の訪問団は、南部の屏東(3度だけ最南端のガランピー岬まで足を運ぶ)、高雄から台南、台中を通り、台北まで300キロ以上の行程を5日間かけて縦走し、元日本人の軍人軍属が祀られている場所や碑を訪れて各地で慰霊の誠を捧げています。これまでの20次に及ぶ訪問の中で私たちが慰霊で訪ねた場所は、南から潮音寺、東龍宮、先鋒祠(以上屏東縣)、保安堂、日本人墓地、台湾無名戦士紀念碑(以上高雄市)、飛虎将軍廟、烏山頭水庫(以上台南市)、貞愛親王殿下登陸紀念碑(台南縣)、富安宮(嘉義縣)、宝覚禅寺(台中市)、勧化堂、濟化宮(以上新竹縣)、海明禅寺(桃園市)、芝山公園(台北市)、明石元二郎総督墓所(新北市)、高砂義勇隊戦沒英霊紀念碑(新北縣)等があります。これらの慰霊地を毎年6箇所以上選定し、戦没者の方々に敬虔な祈りと感謝の誠を捧げています。それらの中で私たち訪問団にとって最も大切な慰霊祭は、11月25日、地元の台湾台日海交会等が主催して行われる宝覚禅寺での「原台湾人元日本兵軍人軍属戦沒者大慰霊祭」です。
台湾では、昭和63年に38年に及んだ戒厳令が解除されたのを機に、大東亜戦争で戦死した元日本軍人
軍属3万3千余柱と戦争の犠牲者となった住民を祀る事業が、台湾の戦友会と日本の戦友会の協力のもとに進められました。地元福岡でも台湾の澎湖島出身の元軍医・森晴治氏(第5次、第6次訪問団に参加。平成17年の第7次訪問を前に91歳で逝去)が募金活動に尽力され、ご自身の多額な寄付や観音像の寄贈などその努力が美を結び、平成2年11月25日、宝覚禅寺に「和平英魂観音亭」が建立されました。その隣には、李登輝総統(当時)によって「霊安故郷」と揮毫された慰霊碑が建てられています。まさしく宝覚禅寺は、先の大東亜戦争で亡くなられた元日本兵軍人軍属だけでなく戦災で犠牲になられた民間人までもが一同に祀られている、台湾における慰霊の中心地です。
毎年慰霊祭は、午前10時から「霊安故郷」慰霊碑の前で行われます。参加者は私たち一行を含めて約100名です。慰霊祭はまず中華民國(台湾)と日本両国の国歌斉唱で始まります。続いて黙祷。次に地元の主催団体の献香、献花、献果、そして祭文が奏上され、最後に訪問団を代表して団長が祭文を捧げています。祭文は訪問団の目的を述べるだけでなく、私的な一民間団体とはいえ日本国民を代表する一行として心を込めて書き上げられています。その内容は、欧米の植民地支配の軛から黄色人種解放という世界史的偉業に一命を捧げられた崇高な行為に対し敬意と感謝の誠を捧げ、日台両国の国交正常化と運命共同体としての絆を一層深めていくことを祈念しています。このあと参列者全員で「海ゆかば」を奉唱し、約1時間に亙る行事は終了します。
私たち訪問団は毎年この行事に参加するのみならず、台湾各地にある元日本人の慰霊地にできるだけ足を運び、慰霊の誠を捧げています。そうした私たちの努力が実り、第8次(平成18年)に初めて南天山濟化宮(新竹縣)という神社を訪れました。日本の書籍では余り紹介されていない場所です。この神社が分かったのは、私たち訪問団と長く交流のある元従軍看護婦の陳清子さん(台湾在住)から手紙と一緒に新聞の切り抜きが送られてきたからです。
その記事を頼りに初めて濟化宮を訪問したとき、現地の人より「濟化宮に観光バスで日本人が来たことも、またご案内したことも今回が初めて」と言われました。濟化宮は神社といっても神社風の建物ではなく、本堂や7階建ての建物で構成されています。その7階建ての寶塔には、昭和57年10月25日に靖國神社から持ち込まれた台湾人御祭神の霊璽簿もとに作成された「○○霊璽」(位牌のこと)約4万体が納められています。靖國神社に祀られている台湾人は27,593人なので、その差約1万人は日本では「戦死」と見なされなかった人々だといわれています。当時、遺族は日本の靖國神社まではとても参拝にいけないので、濟化宮の建立はとても喜ばれたといいます。現在ここは「台湾の靖國神社」と呼ばれています。先の大戦で亡くなられた人々の供養は、ここで今日まで地元の有志によって営まれているのです。
訪問団の成果
20次に亙る訪問団を実行することによって私たちが得た成果は幾つかあります。
1つは、先の大戦で亡くなられた人々(英霊)への慰霊を通して、日本と台湾は魂からの真の交流ができることです。私たち一行が4泊5日で受ける歓迎はどこの地でも熱狂的です。そして毎年帰国する日には、団員の両手は現地の人たちから戴いたお土産で一杯になっています。初めて参加した団員の誰もがその熱烈な歓迎ぶりに驚きます。観光や商売で台湾を訪れる人は多くいます。しかし亡くなられた台湾の人々への慰霊のみを目的に訪問する団体はまずありません。それだけに私たちの真心には深く感謝され、今日まで家族的、兄弟的な交流が続くのです。第1次から20次までに交流した人々は1000名以上にのぼり、その数は年々増えています。
2つ目は、明治28年から昭和20年まで50年に及ぶ父祖の統治が如何に台湾の人々のために大きな功績を残したか、その歴史の真実に触れることができることです。日本統治時代の教育を受け、統治時代を知る人たちの生の言葉や現地でその足跡に直接触れることは、戦後の誤った歴史観(台湾を植民地支配)を一掃してくれます。そして何よりも、父祖が台湾に寄せた愛情、努力の大きさにわが身が正されるのです。
次は、台湾訪問中に私たちが直接聞いた言葉です。「日本の統治時代は夜でも戸を開け放って寝ることができた。大変治安が良かった」、「日本の教育を受けた。だから私は時間には遅れない。嘘をつかない」、「日人は自分よりも遥かに小さかった。しかしどうしても勝てなかった。柔道を教わった。日本人は文武両道だ」、「日本人は話し合いをする。そしていつまでも自説を固持しない。相手のことを大切にする」、「日本の文化、日本の価値観、日本の美意識が世界標準になれば、世界は幸福になる」
3つ目は、4泊5日という短い体験ながらもこの訪問団を経験することによって、団員一人ひとりに自国に対する愛情と日本人国民としての自信と誇りが鮮やかに蘇ってくることです。戦後、個人主義の教育を受け、民族や公(おおやけ)の民(たみ)としての自覚を持つ体験が殆どなかったにもかかわらず、忘れていた大切なことを思い出させてくれます。それは日本の国に生れた喜びを持ち、日本の国をこよなく愛し、美しく思う心です。元日本人であった人々の言動から「日本はどういう国であったか」を考えさせられ、「日本人はどのように生きてきたか」を教えられるのです。英霊への深甚なる感謝と慰霊の訪問が、逆に私たちをして日本人としての自覚と責任を生ましめるのです。これほどの得がたい体験があるでしょうか。
更に訪問団では、李登輝元総統とも関係の深い許國雄氏(東方工商専科学校学長/平成14年逝去)や許文龍氏(奇美実業股份有限公司会長)、あるいは蔡焜燦氏(偉詮電子股份有限公司会長/平成28年逝去)や羅福全氏(元台北駐日經濟文化代表處處長)、黄天麟氏(元台日文化經濟協會會長)等にお会いし、50年に及ぶ日本統治から戦前の教育、歴史、文化などについてお話を伺う機会を設けています。これは台湾での私たちの体験をより深め、より正確に学ぶことのできる貴重な時間です。
台湾防衛は台湾人英霊のとの約束 そして世界一の道義国家・日本の再建へ
顧みれば、21年前『台湾と日本・交流秘話』の学びを機に社員旅行から始まったこの訪問団が、今や私たち自身の人生を変えていく、或いは日本人として自立させていく機会になろうとは夢にも思いませんでした。確かに私たち自身がこの訪問によって受ける恩恵は計り知れません。しかしそれと共に、私たちの父祖や台湾の英霊の方々が私たちに対して「日本は台湾のことを忘れてはならない」「日本と台湾は運命共同体だ」と呼びかけられているように思われてなりません。
戦後、蒋介石率いる國民党の圧政に苦しみながらも日本精神を胸に秘め、元日本人としての矜持を断固守り抜いてきた台湾。九州より少し小さい領土に2000万人を超える人口を擁し、他国籍の軍隊を一兵卒も置かず国土を防衛し続けてきた台湾。国民皆兵を堅持し、共産党一党支配の中華人民共和国と互角に渡りあってきた台湾。日本の敗戦を悔しがり、戦後日本人が台湾を放棄し、引き揚げてしまったことを残念がる世界一親日の国・台湾。日本精神を高く評価し、世界に誇る民主国家を築き上げた台湾。このような台湾でありながらも、「台湾の主人公は台湾人」という悲願が国際社会で認知されていません。この台湾の人々の切実な思いに我が国、そして私たち日本人は如何に応えていくのか、その覚悟と責任が問われています。
「台湾防衛は台湾人英霊との約束」そして「世界一の道義国家・日本の再建」、これが私たち訪問団の結論です。
父祖の志を継承する者として、英霊のご加護を賜りながら、今後も訪問団を組織し、微力を尽くていく所存です。