日華(台)親善友好慰霊訪問団

エピソード - 日華(台)親善友好慰霊訪問団 ~ 日台の生命の絆

台湾人の英霊顕彰こそ日台の生命の絆

「日台の生命(いのち)の絆 死守せむと 吾 日本の一角に起つ」

日華(台)親善友好慰霊訪問団の信条であるこの標語の通り、私たちが台湾を訪問する第一義的目的は、大東亜戦争で日本兵として亡くなられた台湾人3万3千余柱に、日本人国民として追悼と感謝の誠を捧げ顕彰することである。

大東亜戦争が我が国の自存自衛とアジア解放の戦いであったことは歴史が証明している。幾世紀にも及ぶ白人による植民地支配の歴史を終焉させ、民族の独立と自由を勝ち取る大義に、我が国の先人や父祖、そして当時日本領土であった台湾及び朝鮮の人々は立ち上がり、生命をかけて戦った。大東亜戦争を経験した台湾の高砂族のある古老は次のように語っている。「我々は台湾に来たオランダにも鄭成功にも、清国に対しても屈従しなかった。しかし、日本だけは別だった。それは大東亜戦争の魅力に勝てなかったからだ。」

しかしこの崇高な行為に対して、戦後我が国は台湾の同胞に十分な償いをしていない。終戦後、インドネシアの独立に際して約2000人の日本人が現地に残り、蘭軍や英軍と熾烈な独立戦争を戦いその半数が生命を落としたが、インドネシアは彼ら日本兵を同朋としてカリバタ英雄墓地に祀り、最高の栄誉と感謝の誠を捧げている。一方、南北朝鮮ではその執拗な反日教育により我が国の真意と努力が〔国民レベルでは〕曲解されている点が多々あるものの、我が国は昭和40年の日韓基本条約締結で、朝鮮戦争で疲弊し尽くした国土復興のため巨額の支援を行い、経済再建・民族自立への道を提供した。このことは大東亜戦争に尽くされた朝鮮人戦死者に報いる行為であった。

これに較べて台湾に対しては、戦後、蒋介石率いる國民党に支配されて以降、今なお「一つの中国」政策に縛られた我が国政府は「台湾は台湾人のもの」との声に耳を傾けていない。これではかつて我が国及びアジアの国々の為にわが身を顧みず尽くしてくれた原台湾人の元日本兵軍人軍属に対して申し訳が立たない。私たち訪問団は台湾を訪れる以上、それら台湾人同朋の英霊に日本人国民として追悼と感謝を捧げる行為なくして真の交流はないとの判断のもと、英霊顕彰を目的にした訪問団を結成することにしたのである。

英霊に導かれた私たち訪問団

私たち訪問団の結成は平成11年である。毎年団員を募って組織し、昨年で第19次を数えた。平成11年(第1次訪問団)は3月6日から9日までの3泊4日で実施された。この訪問団の立ち上げに際しご指導戴いたのは、当時、福岡県郷友会事務局長の日高清先生だった。日高先生から「せっかくお金と時間をかけて台湾に行くのであれば訪問団に名称をつけなさい。ただの旅行の一団では先方にも忘れられ、私たちの記憶も限りなく曖昧になってしまう。そして名称には必ず『慰霊』という文字を入れるように。これがなければ意味がない」とアドバイスを戴いた。第1回目(第1次訪問)は社員旅行を兼ねていたこともあり、団の命名にまで考えは及んでいなかった。しかしそのご指摘を深く受け止め、団体の名称を「日華親善友好慰霊訪問団」と定めた。この命名によってこそわが訪問団の運命は予想を超えた展開をすることになる。英霊との深い関係が生まれていったことがその要因ではないかと思っている。

第1次訪問の2日目のことだった。宿泊した台湾東部の花蓮から中央部にある日月潭へ向かう途中、太魯閤峡谷を通過した。観光名所で有名なこの峡谷は、両岸を断崖絶壁が20キロにも亙って続き、その下を縦横に曲折する渓流が水しぶきをあげている。私たち一行のバスは、眼下に数10メートルもの崖を見下ろしながら山の中腹を縫うように走っていた。ところが、途中からバスの運転手は、私たちの前を走っていた遅い車による時間的遅れを取り戻すために、片側一車線の左右にカーブするこの危険な道路で、次々と前の車を追い抜く暴走運転を始めた。加えて眠気さましに檳榔椰子を齧り、その興奮も手伝って速度は更に上がり、心中穏やかならぬ団員の気持ちもよそにバスは猛スピードで急カーブに突入。対向車との正面衝突は危うく避けたが、その切り返しで谷側のコンクリート製のガードレールに激突。バスの左前方部はガードレールを越え、峡谷の上にはみ出して止まる事故を起こした。一歩間違えれば峡谷に転落、全員即死という大惨事だった。私たちは揺れるバスの後部の非常口から慎重に脱出した。しかし、付近は人家もなければ携帯電話も届かない。日月潭に到着すべき予定の時刻は刻一刻と迫っているのに為す術がない。そのときだった。1台の大型のクレーン車が偶然通りかかり、私たちのバスを道路に戻してくれ、料金も請求せず去っていったのである。

翌朝、代替のバスが手配された。それは日本海軍の旭日旗を会社のマークとする朝日バスだった。後で分かったことだが、朝日バスの社長の蕭興従氏は、かつて大日本帝國海軍の軍属だった。私たち一行が台中にある宝覚禅寺の日本人墓地で国旗「日の丸」を掲揚して、国歌「君が代」を斉唱し、慰霊式を行っているときに、バスで待機していた運転手が私たちを日本から来た戦友会と勘違いされ、父であり社長である蕭興従氏に報告されたのだ。日本に帰国した3ヵ月後の6月、蕭興従氏より11月25日に宝覚禅寺で実施されている慰霊祭の案内状が届いた。このとき初めて同日同場所で元日本軍人・軍属による慰霊祭が行われていることを知ったのである。その年、次女と2人で訪台しそれに参列させて戴いたことを機に、翌年からの訪台は11月25日の慰霊祭に合せて実施することにした。

顧みれば、このとき太魯閤峡谷で事故に遭わなければ、クレーン車に助けられて翌日代替の朝日バスに出会うことも、蕭興従氏との知遇を得ることもなく、11月25日の慰霊祭のことも知らなかっただろう。しかも不思議なことに蕭興従氏と私の父は終戦後、フィリピンにあった米軍のカランバン捕虜収容所に一緒に因われていたのだ。ここまでの偶然があるだろうか。私は第1次訪問を体験して余りにも度重なる偶然の多さに驚き、明らかに英霊の導きを確信した次第である。今思えば、「慰霊」の文字を掲げ日本人として亡くなられた台湾人軍人軍属に日本人国民として追悼と感謝の誠を捧げる訪問団の趣旨と行動を、心から歓迎し私たちと地元台湾の戦友会とを結びつけて下さったのは、ほかならぬ台湾人3万3千余柱の英霊ではないかと感謝している。

(文章:小菅亥三郎/第20次結団式)

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