八田與一・外代樹ご夫妻墓所

エピソード - 台湾で最も愛される日本人技師 八田與一

八田與一・外代樹ご夫妻墓所

烏山頭水庫の完成から12年を経た昭和17年(1942)5月のことだった。八田は軍からフィリピンの綿作灌漑調査を命ぜられ、夫人の外代樹と8人(2男6女)の子供を残し、5月5日、広島・宇品港から大洋丸に乗り込む。船団が五島列島沖を航行中、5月8日にアメリカ潜水艦の攻撃を受け、大洋丸は撃沈されてしまう。それから1ヶ月ほど経った6月10日、漁をしていた山口県の漁師の網に遺体がかかった。腐乱がひどく顔形は判別できなかったが、衣服の名詞から八田與一の遺体であることがわかる。5月8日が八田の命日とされ、7月16日には台湾総督府葬、7月下旬には烏山頭の銅像前で嘉南大圳組合葬が八田を慕う多くの農民たちによって、しめやかに行なわれた。

昭和20年(1945)の終戦で、日本人は台湾を去ることになる。外代樹夫人も同様の身であった。長男晃夫は昭和19年(1944)に父の母校である東大を卒業すると海軍に志願、次男泰雄も台北高等学校に在籍したまま学徒動員で応召され、男手のないまま夫人は空襲をさけるため家に残っていた3人の子供たちと烏山頭へ疎開していた。

8月31日、次男が帰ってきた。しかし、日本が降伏文書に調印する前日の9月1日未明、外代樹夫人は遺書の最後に「みあと慕ひて我もゆくなり」と記し、夫が作りあげたダムの放水路に身を投げてしまう。45歳だった。

外代樹夫人は八田と同じ金沢の生まれで、金沢第一高等女学校を卒業している。卒業時、知事から銀時計を送られるほど成績は優秀だった。卒業後、すぐ16歳で八田の許に嫁ぎ、その才を生かし、陰に陽に八田を助け、子供を育ててきた。台湾を終生の地と考えていたのかもしれない。

嘉南の人々は2人の遺徳を偲び、翌昭和21年(1946)12月15日、夫妻の墓を建てる。八田與一夫妻をいかに嘉南の人達が慕っていたかをうかがい知る逸話である。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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