臺灣海軍ラバウル會

エピソード - 台湾海軍ラバウル会 ~ 日本海軍所属農業技術員

軍人軍属として20万人が従軍 「夢破れたが間違いなかった」

「僕はお国のために、勝利に一役買いたくて、南の島に従軍した。大東亜共栄圏の偉い役人になりたい。そんな夢を見ていた」 そう語っていた王春茂氏は、日本海軍所属の農業技術員として、太平洋の熱帯の島、ラバウル(パプアニューギニア)に従軍した。

台湾総督府は昭和17年(1942)11月、「熱地農業技術員」の養成施設を5ヶ所に設立した。「日本についていけばアジアはよくなる」と信じた王氏は迷わず志願した。熱地農業技術員の任務は海軍の南方進出に従軍し、現地住民に農業を教えて食料を生産し、軍部に食料を供給することである。台湾海軍ラバウル会は熱地農業技術員の戦友会である。

養成施設で学んだ後の昭和18年(1943)7月、19歳の王氏は10数隻の輸送船団で台湾・高雄港を発った。出港から間もなく、台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡で、米軍の潜水艦に僚船2隻が撃沈された。王氏の船は辛くも逃げ切った。その後も敵船を警戒しながら1ヶ月かけて、ラバウルに到着した。日本にとって南方作戦の前線拠点だった。

王氏は、海軍補給部門の第8軍需部の傘下に入り、田ノ浦と呼ばれる海岸付近で食料生産を担った。20人以上の技術員を含めて、大勢の台湾人が駐屯していた。原住民は逃げてしまったので、技術員自らが農民となった。生い茂るアシ群を切り拓き、畑を整備し、台湾から持ち込んだイモ、稲、野菜を栽培した。技術員の上司にあたる日本人指導員は6人いた。中には台湾人技術員を乱暴に扱うものもいた。

戦局悪化に伴い、毎日昼と夜の2回、オーストラリアを出撃した敵機が来襲するようになり、防空壕で寝泊りするようになった。王氏も負傷し、今も尻に傷が残るという。

昭和20年(1945)8月15日、敗戦を告げる玉音放送を全員正座して聞いて、皆泣いた。理想と現実は違った。「日本の敗戦は私の敗戦と同じ。夢、破れました。おまけに、國民党に台湾を奪われてしまった。私は、台湾に遺された日本人の孤児だ」と寂しそうに語る王春茂氏である。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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