白冷圳紀念公園

白冷圳紀念公園(管理事務所)

エピソード - 台湾にもう一人の「水利の父」~白冷圳と磯田謙雄技師

「白冷圳」とは

白冷圳とは、台中市の山間部(新社区を中心とした周辺地域)にある大規模な水利施設のことだ。この新社は高台にあり、気候が涼しく、病虫害も少ない農耕地だが、雨水だけに頼る乾燥畑だった。砂糖の輸出が台湾の経済を潤して以来、台湾総督府は「文化の高低は砂糖消費の多寡によって知られ、糖業の消長はサトウキビの苗の優劣によってきまる」とサトウキビ苗床に適している所を探し、この新社が茎の太いサトウキビの苗作に適しているとの調査報告を受けた。そして新社の奥山、八仙山に沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの土地を灌漑する計画がなされた。

昭和2年(1927)、当時の帝國議会で145万円(現在の55億円相当)の予算が通り、翌年工事が開始された。22のトンネルと14の水路橋、さらに大甲渓中流の白冷台地と新社台地の高低差22.6メートルを利用して、水を移動させる3つの逆サイホン装置も作った。地形の変化を利用し、電気などの一切の動力を使わない送水路が出来上がった。日本から船で運ばれてきた鋼鉄の送水管は、直径1.2メートル、鋼壁1.2センチの立派なもので、当時の日本の鋼鉄技術の高さに驚いた。白冷圳は昭和8年(1932)に完成した。現地の住民からは「いのちの水」と呼ばれ、台中市の新社区、石岡区、東勢区という地域の民生および灌漑用水として利用され、農業が栄えることとなった。

もう一人の「水利の父」~磯田謙雄技師

台湾における「水利の父」と言えば、八田與一技師を思い浮かべる人が多い。東大で土木を学んだ八田技師は明治43年(1910)、日本が統治していた台湾に渡り、総督府の技術者として台湾開発のため数々の事業に携わった。中でも最大の業績は烏山頭ダムと嘉南平野の大灌漑施設の建設である。烏山頭ダムは東洋一の大きさで1億5千万トンの貯水量を誇り、15万ヘクタールの嘉南平野に、地球の3分の1周に当たる1万6千キロメートルの給排水路を造った。大正9年(1920)に着工、昭和5年(1930)に完成した。

八田技師に比べ、磯田謙雄(いそだのりお)技師を知る人はまだ少ない。しかし、磯田技師の功績は決して軽くはない。日本統治下の台湾で彼の行った業績は80年以上たった今日も台湾の人々に讃えられているのを見ると、八田技師同様、我々日本人の大きな誇りといえる。

磯田技師は明治25年(1892)、金沢市上松原町に生まれた。明治39年(1906)金沢一中に入学・44年(1911)卒業、四高、東大土木工学科を卒業して大正7年(1918)に台湾総督府土木局に奉職した。一中から四高、東大土木、そして台湾へとあこがれだった7期上の先輩・八田技師と同じ道を歩み出したのである。26歳になっていた。台湾国立中央図書館に残された資料によると、磯田技師は烏山頭ダムの建設にも従事していたとみられ、同郷である彼を八田技師が呼び寄せたのだろうと憶測される。大正11年(1922)、30歳の磯田技師は中心的立場で水路工事・堰堤工事に取り組み、36歳の昭和3年(1928)12月、「台南州大南庄蔗苗養成所灌漑工事導水路工事」の主任となり完成に力を注いだ。3年後の昭和7年(1932)5月に導水管工事が竣工、9月には水路の通水試験を行い、10月14日から通水が行われた。この農業用水は「白冷圳(はくれいしゅう)」と命名された。

逆サイホンと言えば、金沢城に犀川の水を引いた江戸時代の加賀藩土木技師・板屋兵四郎がいる。兵四郎の技術を知る磯田技師ならではの仕掛けに、当時の台湾の人々は驚いた。

昭和20年(1945)の大東亜戦争終戦後、台湾が日本の統治下から離れることになり、台湾政府は白冷圳を接収、その後、台中農田水利会が管理してきた。ところが平成11年(1999)9月、台湾中部で発生した大地震で白冷圳の一部が壊れ、水が止まった。農業用水だけでなく「命の水」を失った約3万人の流域住民は、当たり前のように使っていた

白冷圳の水が、どれほど自分たちの生活を潤していたかを再認識した。大震災ののち毎年、通水が始まった10月14日に記念会がもたれ、圳の清掃を行なっている。通水80年の平成24年(2012)に2号逆サイホンの近くに歴史公園が整備され、翌25年(2013)には磯田技師の銅像が立てられた。像は八田像と同様に石造りの椅子に腰掛け、東洋一のサイホン装置を仰ぎ見ている。

尚、臺灣臺日海交會の前会長林余立氏は、この白冷圳の農業用水を利用して東勢で園芸農場を営んでいる。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

お問い合わせお問合せ