先鋒祠

エピソード - 死後に結ばれた台湾との縁~先鋒祠(樋口勝見上等機関兵曹)

生前は全く台湾と縁のない海軍軍人が神として祀られるのか

台湾南部の屏東県枋寮郷隆山村にある「龍安寺」。入り口は大きく、美しい観音菩薩像に目を奪われるが、本堂の少し前に「先鋒祠」という祠がひっそりとたたずんでいる。これが大日本帝國海軍軍人、樋口勝見上等機関兵曹〔昭和19年(1944)10月25日没。享年29歳〕が祀られている祠だ。すがすがしい面持ちと堂々とした威風。刀剣を片手に凛として座するその姿にしばし言葉を忘れてしまう。そんなご神体がここに安置されている。台湾で神と崇められる日本人の中でも、金箔で塗られた御神体は珍しい。

彼は生前、台湾でよほど功績があり、尊敬された人物かと言えばそうでもない。実は全く台湾に縁は無く、氏の乗艦歴を見ても、その形跡はない。それなのになぜ台湾の人は彼のために祠やご神体を造り、神として崇めているのか?

地元漁師張渓発氏は龍安寺付近の近海で夜間に小蟹の網漁を行なっていた。昭和60年(1985)7月のある晩、海上に怪しげな赤い灯を発見した。その灯は3日間続いたという。3日目もいつもと同じく、海上で網の引き揚げ作業をしていると、その中に日本人の位牌らしきものが引っ掛かった。不気味に思った張氏は即座に海へ投げ込んだが、不思議なことに3回続いて同じ場所で網に引っ掛かって来た。張氏はいよいよその位牌を持ち帰り、地元の長老達に相談した。位牌には「故 海軍上等機関兵曹 樋口勝見 霊」と記されている。日本人の霊らしいということがわかると、長老達は自分達では判断しかねると感じた。

張氏の父親は当時、龍安寺の寺主であったことから、観音菩薩にその真意をお伺いすることになった。そのお告げは、「この亡霊はここに留まり、龍安寺の観音菩薩の下で仏法を修め、その先鋒としてお寺をお守りしたいと望んでいる。」とのことで、それを聞いた寺では早速本堂の前に小さな祠を建て、樋口氏をお祀りすることとなった。これが「先鋒祠」と命名された由縁である。

レイテ沖海戦の洋上慰霊祭での位牌が…

寺の関係者は更に事の詳細を把握すべく、遺族を探し始めた。幸いにも地元でレンブ(蓮霧)用プラスチックの製造を手掛ける日本人社長がおり、その方の協力で、牌文にある住所を頼りに、日本各所へ問い合わせてもらった。その結果、確かに樋口勝見氏は存在し、氏の姉と弟が存命であることが判明した。遺族の存在が確認されると、寺主の張陳清金氏と会長の陳安全氏は位牌と共に遺族のもとへ向った。そして、地元役場で弟の盛雄氏と対面する。

樋口勝見氏はレイテ沖海戦で散華した帝國海軍将兵であった。レイテ沖海戦とは、栗田健男中将率いる主力艦隊がブルネイからレイテ島に辿り着き、陸軍と共に島を死守するため、小沢治三郎中将率いる第三艦隊は日本から南下し、「おとり」となって敵を北上させるという作戦で、樋口氏はその第三艦隊が誇る当時最新鋭の駆逐艦「初月」に乗船していた。文字通りおとりとなって敵を引き付けたが、小沢中将が指揮を執っていた唯一の制式空母だった「端鶴」も沈没、駆逐艦「初月」・「若月」がその将兵の救助に向った。しかし、救助後、敵の巡洋艦サンタフェモビル等の集中攻撃を受け、壮絶なる交戦が続いた。初月は最後に急反転し、全速で敵に突込み夜襲をかけ、友艦「若月」に見守られ、乗艦の将兵と共に海の藻屑と化したのだ。時に昭和19年(1944)10月25日。樋口氏もこの時散華したものと思われる。

時は移り、39年後の昭和58年(1983)12月、遺族たちによりレイテ沖海戦の洋上慰霊祭が行われた。そこで海に投げられた花束・供養酒・位牌のうち、樋口氏の位牌が2年弱の歳月を経て、龍安寺のある枋寮に流れ着いたのである。第三艦隊が戦ったエンガノ沖は、フィリピン・ルソン島の北東で、台湾からすれば南東のかなたに位置する。台湾の東海岸には大きな黒潮の流れがあり、普通なら北上して日本方向へ流れ着いても良いはずである。仮に台湾に辿り着くにしても東海岸のどこかが通常考えられるルートであろう。それが、バシー海峡を経て枋寮まで辿り着くとは何とも不思議なことである。「神」を畏れ、敬う敬虔さ、自然を素直に受け容れる謙虚さ、出自に関わらず縁を大切にする素直さ、そんな心を台湾の人々に教えられる。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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