日本人墓地(臺中)

エピソード - 台湾に残る日本人墓地

野沢ご夫妻の集骨行脚の旅

話は今から71年ほど前にさかのぼる。昭和20年(1945)の日本の敗戦により、台湾在留日本人のほとんどは日本内地に引き揚げたが、苗栗県大湖に新潟県出身の野沢ムメさんを妻としていた野沢六和氏(中国人で妻の籍に入った)の一家は残った。

野沢氏が畑を耕していたところ、陸軍病院の戦病死者と思われる埋葬された約500名分の遺骨を発見した。野沢氏はその遺骨をすべて集めて家に持ち帰り、丁重に安置していた。そのうち日本人の墓地が荒れて遺骨が散乱しているという話を耳にし、連絡も寄せられるようになった。野沢氏はそのまま放置しておくのを忍び難く思い、各地の日本人墓地に残された遺骨を集めようと決心する。そこから台湾全島を巡る集骨行脚の旅が始まった。この悲願は10数年にもおよび、約2万柱の遺骨を収集し終えたのは昭和35年(1960)秋のことだった。翌昭和36年(1961)秋、当時の日本大使館の肝入りで、収集地域別に分けて納骨することになり、そこで3ヶ所に分けて合葬することになった。

北部区域は台北市の中和禅寺境内、中部地区は台中市の宝覚禅寺境内、南部地区は高雄市の覆鼎金公墓の3ヶ所である。野沢氏のこの尊い行為に影響されたのか、日本政府は昭和32年(1956)になって台湾に散在する日本人の墓地遺骨の整理を始めている。

台湾との国交が保たれていた間は、日本大使館の主催で年に一度、11月27日は中和禅寺、11月29日は宝覚禅寺、12月1日には覆鼎金公墓の日本人墓地でそれぞれ慰霊祭が行われていた。国交が断たれてからも日本人会が中心となって慰霊祭は続けられていたが、関係者も高齢となり墓地も荒れ、現在は宝覚禅寺の日本人墓地に集められ有志により守られている。

国交を締結しながらも、日本人による慰霊訪問にはことあるごとに難癖をつけ妨害する一方で、ありもしなかった「大虐殺」をデッチあげ、南京屠殺館のようなものを拝ませようとする一党独裁の中共と、戦後70年以上経った今も、私たち日本人の物故者を大切に扱ってくれている国交のない国・台湾。死者との向き合い方でいえば後者をとるのが私たち日本人のつとめではないだろうか。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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