二二八紀念公園
- 住所
- 100-0048
臺北市中山區凱達格蘭大道3號 - 電話番号 / FAX
- 02-2389-7228
- No.
- 52585
- 当初訪問日
- 平成28年11月26日(2016年)
- 訪問実績
- 第18次
エピソード - 二二八記念公園
日本統治時代の都市公園
公園が作られる以前は明治21年(1888)に落成した台北天后宮(媽祖廟)があるだけで周囲に何もない荒蕪地であった。日本統治時代に台湾総督府は、当地に大規模な都市公園建設を計画し、明治32年(1899)に起工し、明治41年(1908)に初期完成に到って開園した。台湾に建設された最初のヨーロッパ風近代的都市公園であり、明治30年(1897)に開園した円山公園に次ぐものであったので「台北新公園」と名付けられた。大正2年(1913)、台湾総督府は北側に「児玉総督後藤民政長官記念館」(現在の国立台湾博物館)建設を開始し、大正4年(1915)に完成させた。同時に台北駅方向の園外北側を日本人居留地として開発整備した。
大東亜戦争終戦後、台湾に来た中華民國軍によって起こった二二八事件では、中心地のひとつとなり、中華民國による台湾統治に反抗して蜂起した台湾住民が、園内の台湾ラジオ放送局(旧台湾放送協会本部)を占拠し、台湾全土に向けて台北での蜂起を告げたのだった。
平成8年(1996)、当時の陳水扁台北市長(後に中華民國総統)は二二八事件で犠牲となった台湾住民を追悼する二二八和平記念碑を建立し、公園の名称を二二八和平記念公園に改めた。また、事件の舞台となったかつての放送局の建物を台北二二八和平記念館とした。
國民党の台湾上陸と二二八事件
台湾の日本統治時代は、日清講和条約(下関条約)によって台湾が清国から日本に永久割譲された明治28年(1895)4月17日からはじまった。日本の統治は大東亜戦争終結のポツダム宣言によって終わり、マッカーサー元帥の一般命令第1号で台湾には昭和20年(1945)10月25日に日本にかわって中華民國軍が進駐した。大東亜戦争後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる南京国民政府軍である当時の中華民國が台湾に上陸してきた。南京国民政府は、日本軍の降伏式典後に、台湾の日本からの解放、すなわち「光復」を祝う式典を行い、台湾を中華民國の領土に編入して、台湾を統治する機関として「台湾省行政長官公署」を設置した。「行政公署」の要職は新米の外省人が独占した。しかし、「行政公署」と政府軍の腐敗があまりにもひどかったために、それまで台湾にいた本省人が「行政公署」と政府軍に反発し、昭和22年(1947)2月28日に本省人の民衆が蜂起したのだ。それが「二二八事件」である。
当時の台湾の行政長官兼警備総司令だったのは、陳儀である。彼は、日本に留学して日本陸軍士官学校を卒業している。明治44年(1911)に辛亥革命が発生すると、浙江の独立運動に参加する。大正6年(1917)には日本の陸軍大学に留学し、大正9年(1920)に帰国。その後國民党に加わり、党員として福建省政府主席、行政院秘書長、陸軍大学校長代理などを経て、台湾省行政長官兼警備総司令に任じられた。
二二八事件とその背景
戦後の台湾は、それまでの日本統治時代とは大きく変わった。政府軍の兵隊たちの台湾人への略奪や強姦は日常茶飯事で、殺人事件も頻発した。役人達は、台湾の物資を横領、上海の国際市場で売り捌き、暴利を貪ったため、台湾全土を急激なインフレが襲い、多くの台湾人はどん底の生活に喘ぎ苦しむことになったのだ。そして、ついに二二八事件が起こった。
事件の発端は台北で起こった闇タバコの取締事件だった。当時の台湾では、タバコは専売制で中華民國政府の専売局以外では販売することができなかった。闇タバコを販売していた台湾人の女性に対して、役人が暴行を加え射殺する事件が起きたのだ。抗議した群集に対して取締官が威嚇発砲し、無関係な人を死亡させた。この事件をきっかけにして民衆の怒りが爆発し、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。憲兵隊が非武装のデモ隊に向け無差別に掃射を行って、多くの市民が負傷したり殺害されたりした。それをきっかけにして全台湾に騒動が広がっていった。國民党政府は大陸から大量の援軍を派遣して、無差別に発砲や処刑を行い、武力によって徹底的に鎮圧した。二二八事件は台湾人だけでなく、日本人も韓国人も無差別発砲や逮捕で処刑され「琉球漁民」200人まで虐殺された。その他、遺族からの訴訟問題で明らかになった事例以外は、國民党政権下では国家機密として全容は明らかにされていない。
台湾では、この二二八事件以降、蒋介石率いる台湾國民党政府によって言論弾圧が強化されて、昭和23年(1948)には戒厳令が敷かれた。台湾の戒厳令は、蒋介石が台湾の最高権力者時代と、蒋介石の死後、その長男の蒋経國の時代までの38年もの長い歳月にわたり、台湾人を抑圧し続けたのだ。この戒厳令が解除され、台湾に表現の自由が浸透していくのは、昭和63年(1988)に李登輝が総統になり、平成8年(1996)国民による総統選挙が行われるようになってからのことである。
戦後の台湾の政治状況
昭和20年(1945)年、日本が連合軍に降伏すると、連合国軍は國民党軍に台湾の占領を命じた。國民党軍は10月17日には台湾に入り、25日には中国戦区台湾地区降伏式が行われ、この日から台湾省行政長官のもとでの生活がはじまった。しかし、新しい生活の始まりは、従来の台湾人にとって必ずしも新しい幸福をもたらすものではなかった。この日を境に従来の台湾人は「本省人」と呼ばれ、新たに大陸から来た中国人を「外省人」といって同胞の中で差別される生活が始まったからだ。本省人は50年間「日本人」だったのだ。戦後の台湾を考えるとき、このことは極めて重要なことである。
12月25日には、在台日本人の引揚げが始まった。日本人は、それまで50年にわたって築き上げてきた公的機関・民営企業・私有財産のすべてを接収され、全く無一文の状態で祖国に引揚げて来たのだ。接収された総額は、当時の金額で109億9090万円という巨額なものだった。戦後の台湾は、日本から接収した莫大な資財・工業財の上に国造りを始めていったわけである。在台日本人の引揚げが完了したのは、翌昭和21年(1946)4月20日のことだった。
日本人が去って、同胞による新しい国造りが始まることを期待していた台湾の人々に、日本の統治下でも生じたことのなかった大変な惨劇が襲いかかった。これが今日まで台湾の人々の深い心の傷となっている二二八事件である。この事件によって実に多くの優れた知識人や、前途有為な若者達が無残に殺害された。1ヶ月の間に殺された人は約2万余人を数えるといわれる。今日の本省人と外省人との対立の原点は、まさにこの事件にあると言って間違いないだろう。
昭和20年(1945)10月24日、この日、蒋介石の命令で陳儀将軍一行が台北の松山空港に着き、その後、國民党軍は陸続と台湾入りして来た。ところが陳儀は台湾を“化外の地”として扱い、日本人の遺産をはじめ、台湾人の食糧でさえも大陸に売りつけて私腹を肥やしはじめたのだ。下の軍人も規律などお構いなしだった。強奪・掠奪・横領は日常茶飯事と化してしまい、それは「降伏財」とも「光復財」ともいわれたほどだった。しかし、蒋介石への報告にはそんなことは一言も洩らさない。本省人が外省人に憤懣を覚え、それが鬱積していったのも当然のことだった。ここに二二八事件が起こったのだ。
やがて蒋介石は陳儀の報告に疑問を感じ、その虚偽を見抜いた。昭和22年(1947)3月、あえて陳儀を浙江省主席に栄転させた。そして2年後、陳儀は中共投降の陰謀を摘発され、逮捕され台北へ移送、「反乱罪」で銃殺されたのだった。当然の報いであったとはいえ、二二八事件が残した傷跡はいまだに深いのである。
話は少し戻るが、大陸では、日本が降伏したため、日本軍に対抗するため結ばれていた国共合作が崩れ、昭和20年(1945)の11月から再び國民党軍と共産党軍の間に戦闘が始まった。翌年の7月からは全面的な内戦となり、10月に蒋介石は中華民國の主席に就任する。しかし、人民解放軍の勢いは止まることなく、昭和23年(1948)12月には北京に無血入城し、翌年10月1日に中華人民共和国が成立する。敗れた蒋介石が率いる國民党は12月7日、台湾に政府を移し、台北を中華民國の臨時首都と定めた。台湾に移った蒋介石は、長男の蒋経國とともに蒋家による台湾支配を目指した。昭和24年(1949)5月20日から施行されていた戒厳令により、新たな政党を作ることを禁止し、実質的な一党独裁体制を実施したのだ。党を政府の上に置き、党による支配を目指す蒋介石は、これにより「党(國民党)」「政」「軍」「団(救国団)」という台湾統治に必要な手綱を握ったのだ。國民党は共産党と長期にわたる熾烈な戦いを続けてきたが、皮肉なことに蒋介石・蒋経國の政治手法は全体主義的であり、集会・結社の自由や自由な言論活動を制限した戒厳令は実に38年間も続き、台湾人の行動を制限し続けた。
昭和50年(1975)に蒋介石が死去、蒋経國が跡を継ぎ國民党の主席に就任した。しかし、人々の民主化を求める声は、台湾が経済的に発展し、生活が豊かになるにつれ日増しに強くなり、昭和61年(1986)には戦後はじめての野党である民主進歩党が結成され、翌年に戒厳令が解除された。
このような民主化の圧力が強まる中、今までのように外省人だけが政府の重職に就くという形態を維持することが困難になり、台湾人を起用する懐柔政策を取らざるを得なくなった。そこで、台湾省主席に謝東関が台湾人ではじめて就任、また副総統という高い地位に就いたのだ。6年の任期後、謝東関は健康上の理由で辞任、代わって同じ台湾人の李登輝が台湾省主席から副総統に就任した。
昭和63年(1988)は台湾史にとっては画期的な年になった。1月13日に権力を一手に握っていた蒋経國総統が亡くなったのだ。すぐに憲法の定めるところに従って、副総統であった李登輝が総統に就任した。このことの意味がおわかりだろうか。中華民國総統の地位は、國民党が台湾に移ってから一貫して外省人、それも蒋介石・蒋経國と蒋一族が座っていた玉座である。それにはじめて台湾人が就いたのだ。
しかし、國民党の一党独裁政治が長く続いた台湾では、国家主席の総統より党の主席の方が重要に思われている。蒋介石の未亡人である宋美齢女史や権力の中枢にいた外省人たちは、総統は認めても、李登輝が党の主席に就くことには賛成しなかった。党主席の地位だけは台湾人に渡したくなかったのだろう。総統・主席の分離を主張したのだ。しかし蒋家の威光はもはや民主化を求める勢力の前には何の力も発揮しなかった。國民党は7月の党員代表大会で李登輝を党主席に選出した。この台湾出身の最初の指導者として李登輝総統が真の民主化を目指していくことになる。
(文章:五郎丸浩/第20次結団式)