海明禪寺

エピソード - 富田直亮(とみたなおすけ)将軍と白団(ぱいだん)

蒋介石を救った日本将校団

台北市と桃園市のほぼ中間のところに樹林市がある。そこで下車して北に向かうと、高台の上に煌びやかなお寺が見えてくる。「海明禅寺」である。その寺のシンボルは八角の7階建の塔である。その塔の中に富田直亮(とみたなおすけ)大日本帝國陸軍少将、後に中華民國陸軍上将となった人の遺骨が祀られている。

かつて帝國陸軍の将官であった富田少将がなぜ旧敵国である中華民國の大将に栄進し、台湾で永遠の眠りについているのであろうか。

昭和24年(1949)7月のある日、東京の国立第一病院に入院中の元支那派遣軍総司令部参謀、岡村寧次(おかむらやすじ)大将の病床に、中華民國の蒋介石総統から一通の親書が届けられた。

その書簡の内容は「国共(国府軍・共産軍)内戦において連戦連敗中の国府軍の窮状を訴え、大陸から台湾に部隊を撤退させて軍の再建を図るつもりであるが、その再建を支援するために、帝國陸軍の軍人同志の協力を得たい」というもので、これこそがその後20年も続く白団活動の原点となったのである。岡村将軍は旧部下の人達と協議し、「関東軍はソ連に抑留されてまだ帰っていないぞ。南方総軍も帰国はまだ完了していない。最も懸念された支那大陸の我々が、最も恵まれた状態で帰れたのは夢のようだ。」そのとき岡村大将は「この恩義に酬いるため、一人でも多くの元軍人に参加してもらいたい。全責任は俺が持つ」と強い決意をもって、その要請に応ずるよう決心した。

この岡村大将の決意を体して秘密裡に人選がすすめられ、同年末までに第1次要員19名(解団までの20年で83名)が同志として血盟を結んだ。白団の団員成員条件は、身体健康者、陸軍大学卒業者、作戦経験者、反共意思の堅い者、人格高潔であり、その任務は在台國軍訓練であった。団長には岡村大将の信頼厚い富田直亮少将(終戦時、南支第23軍参謀長)が就任した。白団という秘匿名称は、富田少将の化名(ホアミン=変名)「白鴻亮」の頭文字をとって名づけられたものであるが、「共産軍(紅軍)に対抗する軍組織の指導者」という意味も有するといわれている。

白団は何を残したのか

白団の教育は、昭和24年(1949)から44年(1969)まで20年もの永きにわたって続けられ、全部で89名の元帝國陸軍将校がこれに参加している。蒋介石総統は白団の教育に対し、絶対の信頼を寄せていた。アメリカの軍事顧問団から白団の教育を中止するよう横槍が入ったときにも「あの人たちはアメリカがわれわれを見捨てた時期に助けに来てくれた。いまさら見捨てて帰すことは絶対にできない」と、米顧問団の申し出を拒否したと言われる。

彼らは国府軍に何を残したのであろうか。中華民國の曹士澂(そうしちょう)少将は、日本の陸軍士官学校に留学したこともある知日派の将軍で、白団創設以来、終始にわたり同団と関係の深かった人物であるが、「まずもって重要な点は、日本式の徹底的な精神教育によって負けた軍隊の士気が上がったのです。…負けただけでなく貧しい軍隊でしたから、同じように貧しかった日本の教育が一番あっていたのです。それからいろんな演習によってさらに自信がついた。…遂に登(上)陸作戦もできるようになったのです。また、戦術・戦略の教育を、我々は中国では革命以来、ずっと戦争で十分にやる暇がなかった。兵士は2週間くらい訓練したらすぐ実戦なんです。それが白団によって本当に正式の軍事教育を受けることができた。白団の教育を受けた者たちは、今でもそれを誇りに思っています」と語っている。

白団の団長であった富田少将は、白団解散後も台湾に居を構え、中華民國国軍の尊師・顧問として尊信を受けていたが、昭和54年(1979)4月、日本に帰国中に発病し不帰の客となった。

遺骨の一部が樹林の海明禅寺に納められたことは冒頭に述べたが、それは富田少将の遺言だった。名利を求めることなく、黙々として日華親善推進のために挺身した白団の最高責任者にふさわしい終局の身の処し方であったといってよい。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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