東龍宮

エピソード - 台湾の日本神~東龍宮(田中将軍廟)

参拝者溢れる日本人だけを祀る廟

台湾南部の屏東県枋寮郷隆山村にある「東龍宮」。この廟は「田中綱常」という日本人を祀るために建立されたものだ。綱常を取り巻くように祀られている4人も日本人だ。乃木将軍、中山其美将軍、良山秋子将軍、北川将軍の4人で、中山、良山両女性将軍は軍の看護士として同行した人だ。台湾には夥しい数の廟があるが、ご祀神が全て日本人という廟はここだけだろう。

女性道士でこの廟の宮主である石羅界さんは、当時居住していた屏東で綱常からのお告げを受け、自宅に小さな祭壇を設けた。その後も度々お告げを受け平成8年(1996)には現在の地、枋寮で廟を建てるようお告げがあり、地元の実業家からの寄付と私財を使って16年前に現在の立派な廟を完成させた。

石羅界さんはその後も綱常から次々とお告げを受けている。ある日のお告げでは、日本軍が掘った洞窟の場所を指示され、実際そこへ足を運ぶと、日本軍が使ったと思われる日の丸が出てきた。廟には今でもその日の丸が掲示されている。

田中綱常の名を知る人は日本でも多くない。明治時代の海軍少将で鹿児島県人である。綱常は天保13年(1843)生まれ、明治維新前は薩摩藩士だった。維新後陸軍に入隊し、後に海軍に転身し海軍少将で退役している。

綱常と台湾との縁は数十年に及ぶ。明治4年(1871)、宮古島の漁民66人が台湾で遭難し、先住民のパイワン族に54名が斬首されたいわゆる「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が清国代表の毛昶照と外交折衝を行ったが、「生蕃は化外の民」として、日本を相手にしなかった。明治7年(1874)に日本軍は西郷従道中将率いる「征台の役」を敢行するが、それに先立ち23名の先遣部隊を派遣している。その中のひとりが若き綱常であった。その後綱常は海軍に転属になり、明治23年(1890)には軍艦「比叡」の艦長として「エルトゥールル号事件」の遭難者をトルコまで送還し、時のオスマン朝皇帝に謁見している。明治24年(1891)からは征台の役時の軍人・軍属の遺骨収集や墳墓合葬などの処理に従事した。そして、領台直後には澎湖列島行政長官、台北県知事、総督府民政事務次官などを務めた。

石羅界さんがこれまでの人生を投げ打っただけでなく、残りの人生をかけてまでお告げに従う信心深さに呼応するかのように、この東龍宮には参拝者が後を絶たない。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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