林森公園

エピソード - 明石元二郎台湾総督と林森公園

林森公園(明石元二郎旧墓地跡)

南京東路と林森北路の交差点にある林森・康楽公園。付近には日本人の集まる歓楽街の林森北路があり、晶華酒店や老爺酒店など日本人の宿泊客の多いホテルに隣接している。

この公園に2つの鳥居が帰ってきた。そもそも、この公園一帯は日本時代「三板橋墓地」と呼ばれる日本人墓地であった。鳥居が「帰ってきた」というのは、この2つの鳥居は、この墓地に眠っていた明石元二郎第7代台湾総督と、その秘書官であった鎌田正威(かまたまさたか)氏の墓前に建てられていたものだったからだ。

この日本人墓地は戦後、中国大陸から敗走してきた國民党の下級兵士たちの塒(ねぐら)となり、その墓石はバラックの梁や床石となり、鳥居は物干し台に流用されていた。着の身着のままでやってきた下級兵士たちが好き放題に住み着き、十数年もすると住所プレートまで掲げる始末。行政上違法であり、犯罪の温床にもなったため、平成9年(1997)頃、時の陳水扁・台北市長の号令下で、この場所の浄化が行われ公園として整備された。また整備の過程で、明石総督の墓所からは棺も見つかり、亡骸は台湾海峡を望む台北県三芝郷にある福音山基督教墓地へ改葬された。その他の日本人の遺骨はその殆どが台中市の宝覚寺に葬られている。

明石総督は在任中の大正8年(1919)、公務で内地に戻る船上で病に侵され不帰の人となった。しかし、民政長官として仕えた下村宏(しもむらひろし)に対して「必ず台湾に葬るように」との遺言を残していたため、遺骸は台湾に運ばれ、当時この場所にあった墓地に埋葬された。その規模は「皇族方を除けば、明石ほど立派な墓に葬られた軍人はいない」と形容されるほどであった。墓所にある大鳥居は、明石総督の後を継いだ第8代総督・田健治郎により大正9年(1920)に建立された。

この地が公園に整備されると2つの鳥居は行き場を失い、国立台湾博物館の正面入り口左側の襄陽路沿いに並べて建てられていた。取り壊されたり撤去されることも無かったのは幸いだったが、縁もゆかりもない場所に2つの鳥居が並んでいるのは奇異な光景だった。それを見かねた公園の地元である康楽里の王金富里長(町内会長のようなもの)と正義里の王明明里長が、陳玉梅・台北市議会議員に陳情し、陳議員の奔走により台北市議会で鳥居の移転が決定され、元の場所に戻されることになった。

現在2つの鳥居は、大勢の市民で賑わう公園の一角に鎮座している。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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