獅頭山勸化堂

エピソード - 獅頭山勧化堂

台湾人の部下を救った広枝音右衛門警部

獅頭山といえば台湾仏教の聖地である。海抜520メートル、原生林におおわれたこの山には大小18にもおよぶ規律厳しい寺院が、自然そのままの景観を残す岩穴を背後にして並んでいる。

時は昭和51年(1976)9月26日、この獅頭山勧化堂に、戦前、苗栗県で巡査をしていた広枝音右衛門をお祀りして供養する式典が、日台双方の関係者を集め、盛大かつ厳かにおこなわれた。当初は台湾の人々が親しみを込めて呼ぶ「ひろえ」を取り「広枝廟」を建設しようという声が挙がったほど、この広枝音右衛門という人は台湾人の元警察官たちから人望があった。それは人望というよりも尊崇といったほうがよいかもしれない。なぜなら広枝音右衛門の自決によって、2千人にのぼる台湾人青年の生命が救われたからだ。

大東亜戦争中の昭和18年(1943)12月、日本軍はフィリピンの防衛強化のため、総勢2千名に及ぶ海軍巡査隊を編成し派遣した。この巡査隊の総指揮官に任命されたのが広枝警部であった。

マニラでは厳しい訓練に次ぐ訓練の中、広枝隊長は常に部下の先頭に立って励ました。巡査隊の任務は主に物資の運搬、補給など後方支援であったが、戦況は刻々と悪化する。昭和20年(1945)2月、マニラ市郊外に上陸した米軍に対峙すること3週間、広枝隊長率いる海軍巡査隊はよく市街防衛の任務を果たしたが、ついに軍上層部より総攻撃の命令が下達される。やがて巡査隊に棒地雷が渡され、「これで敵戦車に体当たりしてその場で全員玉砕せよ」との命令を受けた広枝隊長は、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添氏を伴い、密かに米軍と交渉する。その結果「諸君はよく日本のために戦ってくれた。だが、もうよい。戦闘の続行は戦備からも不可能である。そうはいっても、今ここで軍の命令どおり玉砕することは犬死に等しい。故国台湾には、諸君の生還を心から祈っている家族がいる。この際、米軍に投降し捕虜になってでも生きて帰れ。責任は私がとる。私は日本人だからね」と言い遺して壕に入るや拳銃で自決したのであった。広枝隊長、享年40歳。

さて、この一死をもって代えた広枝隊長の決断で、海軍巡査隊の台湾青年たちはそれぞれの故郷に帰ることができた。

劉維添氏は、隊長戦死の地であるフィリピンを訪れ、その霊を弔うことを宿願としていたが、昭和58年(1983)5月、ついにその思いを遂げることになる。そして、隊長戦死の土を拾い集め、茨城県取手市に住む未亡人の広枝ふみに手渡したのであった。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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