忠烈祠(桃園)

忠烈祠(桃園)(管理事務所)

エピソード - 桃園神社と北白川宮能久親王

桃園神社

桃園神社の創建は昭和13年(1938)9月23日、春田直信(設計)、幸野十一(工事監督)、藤島敬介(棟梁)の各氏を中心に進められた。

昭和17年当時のご祭神は明治天皇、豊受大神(とようけのおおかみ)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、能久親王(よしひさしんのう)であり、明治天皇、豊受大神以外の祭神は台湾の大部分の神社と同じであった。ちなみに、明治天皇をお祀りした神社は、全68社中21社、豊受大神は7社である。

桃園神社の祭神中、特に記しておかなくてはならないのは能久親王のことである。伏見宮家の第9王子として弘化4年(1847)にお生まれになった王子は、後、第120代・仁孝天皇のご猶子となり、儒学・仏典・書道等を修められた。明治2年(1869)、勅許を受け渡欧、以後独逸に8年間滞在されている。帰国後、陸軍戸山学校に入学し、日清戦争の際には中将として兵を率いて戦地に渡り、各地を転戦されている。

戦後、日清講和条約が成立し、わが国は台湾・澎湖列島の割譲を受けることになるが、その際、能久親王が台湾守備の任に当たられたのである。台湾の北端、澳底(おうてい)に上陸して後も親王は先頭になって各地を平定、遂に台南に至る。しかし、これより先、病に冒されていた親王は49歳をもって薨去されるのである。

このような能久親王のご遺徳を偲び、後に創建される台湾各地のほとんどの神社に祭神としてお祀りされたのは、ある意味で自然な経緯というべきかもしれない。

そのような神社のひとつである桃園神社について、当時、桃園小学校に通っていた白山康雄氏は「近在の台湾人や日本人がよく足を運び、時には学校の生徒が集団で参拝していた。また、自身も子供神輿をかついだ経験がある」と語っている。

ところで、戦前、海外の神社において、現地の人を強制的に参拝させたことが取り上げられることがある。台湾でもそのようなことは少なからずあったようだが、一方でこんな話しも残っている。海軍大将・長谷川清が台湾総督を努めた時代「媽祖、関帝、鄭成功、呉鳳、城隍爺、土地公等の神々も迷信の害がない限り、信仰の自由の信念の下に素朴な土俗信仰の存続を認め、不適とか撤去とかの過剰行為を禁じた。日本の神道を強制することは止めさせている」(鄭春河『領台五十年回顧』)

姿を変えた海外の神社

昭和20年(1945)8月のわが国の敗戦を境に海外の神社はその姿を大きく変えなければならなくなった。台湾の神社もその例に漏れることなく、多くが取り壊され、跡地に忠烈祠や廟が建築された。

桃園神社も「新竹縣忠烈祠」となり、桃園縣が新竹縣から分離した際に現在の「桃園縣忠烈祠」に改称された。切妻式本殿の内部も一部手を加えられ、鄭成功、劉永福等の像と台湾烈士の牌位が祀られる。しかし外観は当時の清楚な姿をそのままに留め、そこだけ時間が止まったようである。各地で神社が壊される中、桃園神社は住民投票によりその存続が決定し、境内整備がさかんに進められた。いずれにしても、桃園神社はきわめて貴重な神社であることに変わりはない。それは単に、建物が建築当時の様子とほとんど変わらず残っているからばかりではない。当時の姿のままに残そうとした、日本統治時代を知る台湾の人々の心にこそ私たちは思いを馳せるべきだろう。

台湾の主要神社(『明治維新・神道百年史』より)

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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