富安宮

エピソード - 富安宮 ~ 神になった日本人巡査

神様の名は「義愛公」

嘉義県東石郷副瀬村に「台湾で神様になった日本人」を祀る富安宮がある。この廟に祀られている日本人は、70余年に亘って村民の尊崇を集め、霊験あらたかため今も参拝者の途絶えることがないと言われている。神様の名は「義愛公」。かつて日本人警察官であった森川清次郎である。

森川清次郎巡査は、日本の統治が始まったばかりの明治30年(1897)、37歳の時に台湾に渡った。彼は慈愛あふれる人で赴任地の台湾人と田畑のことを考えたり、子供達のみならず大人たちにも日本語の読み書きを教えたり、病人が出れば背負って病院まで運んであげたりした。森川巡査は村民の生活や福祉の向上に一途で、犠牲的精神で臨んでいた。それで、村人たちは巡査のことをとても尊敬していた。

しかし、森川巡査を苦しめる事件が起こった。総統府が、村民から新たに漁業税を徴収することを決めたのだ。こう言うと日本は台湾、朝鮮に重税を課したように聞こえるが、台湾、朝鮮は税制面では優遇されていた。たとえば、所得税の税率は内地の半分だったし、酒類等の物品税も内地より極端に少ない数字だった。逆に、日本は内地で集めた税金の一部を台湾や朝鮮へ投入し、学校や道路、鉄道、港湾、水道等を作ったのは有名な話だ。

それでも、日本の統治が始まったばかりの頃の台湾では人々の生活も貧しく、新たな税金を取り立てられることは、村人たちにとっては大変なことだったのだろう。納税は免れないとしてもその軽減をお願いできないかと村民は衆議一致、尊敬し信頼する森川巡査に嘆願した。森川巡査はそれを受け、総統府の台南州東石支庁へ税の軽減を願いでた。ところが、このことが原因で、森川巡査は住民を扇動していると誤解され懲戒免職になってしまうのだ。

まじめな性格の森川巡査は、住民との間で板挟みにあって苦しみ、遂に自決してしまった。総統府はあわてて巡査の処分を取り消したが、もはや手遅れで村人たちは巡査の死を嘆き悲しんた。

月日が流れ大正12年(1923)、村に疫病が流行し、村人たちを恐怖に陥れた。そんなある夜、村長の枕元に制服姿の警官が立ち、伝染病の予防方法を教えた。この人こそが村で語り伝えられてきた森川巡査にちがいないと、村人たちを集め「お告げ」の通りに対策を講じた。すると、伝染病はみるみるうちに沈静化していったのだ。

村人たちは、森川巡査への感謝の気持ちを込めて、巡査の制服姿の木造をつくり、神として富安宮に祀ることにした。そしてその尊称は、巡査の義と徳を追慕するため「義愛公」とされたのだ。義愛公の御神像は霊験あらたかで、人気があまりにもあり過ぎるので、今は何十体もの御神像がつくられ、順番に台湾全土を巡っているそうだ。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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