八角樓

エピソード - 貞愛親王殿下登陸記念碑と八角樓

貞愛親王殿下登陸記念碑

この記念碑は、伏見宮貞愛親王殿下が陸軍少尉混成第四師団長として、布袋口に上陸された地点に御武勲を永久に記念するため、大正12年(1923)1月に建立されたもので、碑文は第8代台湾総督、田健次郎の揮毫によるものである。

明治28年(1895)4月17に日清講和条約(下関条約)が締結され、台湾は日本に割譲された。しかし、すんなりと台湾統治が始まったわけではない。日本の台湾統治に反対する5万とも10万とも言われる清国軍との間に激しい戦闘が繰り返され、台湾全土が平定されたのは、明治28年の末である。

この平定戦において、北白川宮能久親王殿下率いる近衛師団は台湾北部の澳底(おうてい)に上陸。伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王殿下率いる混成第四師団は台湾中部の布袋口へ、乃木希典率いる第二師団は台湾南部の屏東へそれぞれ上陸した。

この記念碑は単なる率軍作戦将軍の記念ではなく、台湾本土島民の戦前の喜楽と終戦の悲哀の象徴として大きな意味を持っている。かつて布袋庄には神社がなく、日本統治時代には神聖な地として重要な祭日や学校の始業式・終了式には街長や教師が学生を率いて必ずこの記念碑を参拝していた。しかし、戦後国民党外来政権の排日政策により記念碑は倒壊され、日本統治の終結が宣旨された。その後、記念碑は行方不明となり、町内では長年、隠定(不安静)が続き神鬼怪説が絶えなくなった。そこで地理士(占い師)による探索の結果、記念碑が住宅の建築基礎として使用されていることが判明。神の指諭により1世紀に亙り地下に埋められていた記念碑は再び天日に現れ、それ以降は神鬼怪説も途絶え穏やかになったと言われている。記念碑は現在、布袋嘉應廟の前に祀られ地元の住民により大切にされている。

八角樓(伏見宮貞愛親王御遺蹟鹽水港御舎営所碑)

八角樓が建てられたのは1847年。台南の有名な豪商"葉連成"が建てたものだ。葉連成は製糖業を営み、月津港から船を使って砂糖を支那大陸へ輸出し、大陸からは絹製品などを輸入していたそうだ。この建物は仕事の傍ら福建省の杉や石灰石を輸入して10年もの時間をかけて建てられたという。

完成からおよそ50年後の明治28年(1895)、日清戦争の後、下関条約が結ばれ、伏見宮貞愛親王が鹽水港に上陸した際、この八角樓を拠点にした。今でも敷地内には昭和18年(1943)建立の「伏見宮貞愛親王御遺跡鹽水港御舎営所」と書かれた高さ約2メートルの石碑が建っている。戦後は題字がコンクリートで塗り固められるなどしたが、今はきれいに剥がされている。

八角樓は、1階部分がレンガ、2階は木造という特徴的な建物です。2階部分は1階よりわずかに張り出す形になっており、優美さを感じ、外観は当時の様子を残している。木材には歴史が刻み込まれ、梁や窓には精巧な装飾が施され、花鳥など立体的で細部にまでこだわった作りで、手間と時間をかけて建てられたことがわかる。主体構造が「ほぞでつぐ」方式で、釘が使われていないため過去の大地震でもほとんど被害を受けず、現在では建築科の学生たちが必ず訪れる文化財となっている。また、八角樓周辺には古い街並みもそのまま残っている。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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