鹽水國民小學

エピソード - 芝山巌事件から僅か3年で創立の鹽水國民小學

芝山巌精神が継承された鹽水國民小學

鹽水國民小學の学校沿革を見てみると、現在の鹽水郵便局の場所に明治31年(1898)に嘉義國語傳習所鹽水港分教場として設立され、同年10月には鹽水港公學校として創立されている。

六士先生の芝山巌事件が起こったのが、明治29年(1896)1月、3月には第1次の講習員の募集がなされ、45名が4月に台北に到着。4月15日から7月1日の卒業式まで芝山巌において2ヶ月半の講習訓練を受け、その後、台湾全土の14箇所の国語傳習所に講習員として散っていった。そして明治31年(1898)に国語傳習所は公学校となった。この間、わずか3年である。台北の士林で六士先生が命を賭けた教育の礎が、この南の地まで確立されているのだ。そのため、第1次の講習員は全員師範学校の卒業生であり、小学校教育の経験者(現職の教員・校長がほとんど)だった。(45人の合格者に芝山巌事件の詳細を語り、希望があれば辞退しても良いと面接したが、だれ一人辞退するものは無かった)

鹽水港公學校は大正10年(1921)に鹽水公學校、昭和16年(1941)には鹽水國民學校と名称を変えている。ここまでが日本統治時代の校史である。従って、今年、平成29年(2017)で119年の歴史をもつことになる。構内にはその歴史を象徴する樹齢100年以上の黒板樹(コクバンノキ=台湾では乳木)がある。

鹽水國小神社

校内には小さな神社がある。この神社も他の校内神社と同様に児童の敬神観念を涵養せしむるために保護者会、職員および一般の有志からの寄付により、建築費500円をかけて建立〔昭和11年(1936)3月鎮座〕され天照大神を祀っていた。戦後は取り壊され孔子廟に建て替えられ「大成殿」に改名され、孔子の教育精神を称える場所となっていたが、その孔子廟も荒れ果てた形で校庭の隅に置き去りにされた。

平成20年(2008)、行政院文化建設委員会と台南縣政府の共同出資により、神社が復元され、鳥居、参道、石燈籠まで整備された。これを機に「鹽水國小神社」という名になった。

訪問団が初めて訪れたのは第10次で、この小学校とゆかりのある何怡涵・陳清子ご夫妻(新營在住)のご紹介だった。鹽水國小神社が完成した時で、劉信卿校長はじめ多数の教職員の歓迎を受けた。その後の第11次、12次での訪問の際には、3ヶ月前から準備していたという高学年の生徒の躍動的な龍の舞、低学年による太鼓の演奏、幼稚園児による鼓笛、タンバリン演奏など子供達から心尽くしの歓迎を受けた。また第14次の訪問では、廬彦賓校長はじめ子供達に歓迎され、校長先生が得意の横笛で「仰げば尊し」を演奏して下さり、その美しい音色に魅了された。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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