蔡焜燦先生

エピソード - 蔡焜燦先生 ~ 老台北として知られる愛日家

約束の時間に大幅に遅刻した慰霊団を待っていて下さった蔡先生

蔡焜燦先生は、昭和2年(1927)1月、台中州大甲郡清水街に生れる。昭和10年(1935)、台湾中北部に掛けて大地震が襲った。この時、昭和天皇から遣わされた入江相政侍従長が罹災地の倒壊した民家を回り、見舞金を下賜した。罹災した蔡先生の実家にも見舞金が下賜され、この出来事によって少年だった蔡先生に皇室と日本への親近感が芽生えたと言う。

昭和12年(1937)、支那事変が勃発。当時、公学校5年生の蔡先生は祖国日本への愛国心と犠牲的精神に燃えていた。昭和16年(1941)、大東亜戦争が始まる。翌17年(1942)には戦線の拡大にともない台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、蔡先生も少年兵に応募し、昭和20年(1945)1月に奈良市高畑の岐阜陸軍航空隊整備学校奈良教育隊に入隊した。昭和20年(1945)1月4日、入隊のため基隆港から輸送船「吉備津丸」に乗り内地へ向かう。後に、当時京都帝國大学の学生で、学徒出陣により徴兵された李登輝元総統も同じ日に同じ輸送船で内地に向かっていたことを知る。

同年8月15日、日本は敗戦を迎える。12月に連合国の命令で台湾への帰還が命ぜられ、昭和21年(1946)1月1日、駆逐艦夏月で台北に到着した。その時台湾を接収にきていた中華民國の兵士の服装、態度がみすぼらしく不潔で、規律正しい日本軍とは似ても似つかぬ姿だったことに愕然としたという。

戦後、体育教師になったが、ある日、卒業生に「心に太陽を持て」とメッセージを送ったところ、外省人の教師に「心に日章旗を持て」と教えていると密告された。難は逃れたものの、教師を辞職することを決意した。

その後、様々な事業を起こすも人間関係で悩み経営から手を引く。その後、サラリーマン生活を始め、昭和43年(1968)10月、会社の出張で戦後初めて日本の土を踏む。この時、祖国に殉じた英霊の鎮魂のために靖國神社を参拝した。その後、訪問時には必ず靖國神社に参拝している。

その後は、再び脱サラし、実業家としてウナギ養殖をはじめ、セイコー電子台湾法人会長など様々な事業に携わり、台湾李登輝民主協会の名誉理事長も努めた。平成26年(2014)4月には、台湾において日本の短歌を通じて日台の交流に貢献したことが認められ、天皇陛下より旭日双光章が贈られた。平成29年(2017)7月、台北市の自宅で死去、享年90歳。

第8次訪問の時、11時から台北の欣葉餐庁本店で蔡焜燦先生にご講話をお願いしていたが、烏來の高砂義勇隊戦没英霊記念碑での慰霊式が長引き、大幅に予定時刻に遅れたにも拘わらず、先生は「帰ろうと思ったが、あなた達が烏來で慰霊式を行なっていると聞いて、待つことに決めた。少しだけならお話しましょう」とおっしゃられ、実に45分にもわたって明石元二郎総督にまつわる秘話をご講話下さったのである。汗顔の至りだったが、先生の豪快さに感じ入ると共に感謝の念に堪えなかった。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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