臺中公園

エピソード - 台中公園 ~ 横倒しのままの台中神社の鳥居

今も残る台中神社の遺構

台中駅近くに位置する台中公園は中山公園とも呼ばれる。かつては湿地、竹林および墓地が混在する雑多な地域であったが、日本統治下において公園として整備され、明治36年(1903)10月28日に開園した。

総面積26,140坪で、うち、池が4,160坪である。基本設計としては西洋式でありながら、園内には日本庭園を備え、池、灯篭や滝石組などが配置された。

明治41年(1908)、縦貫鉄道開通の祝賀会場となった際に、現地を訪れた閑院宮載仁親王のための休憩所として池の上に浮かぶ30坪ほどの湖心亭という建物が建設された。幾度かの修復を繰り返し、その度に姿を変えているが、現在の姿が最も建設当時の姿に近いとされている。湖心亭は平成11年(1999)4月17日に市定古蹟として認定されている。

他にも丘の上にある望月亭というベンチつきの休憩所があり、清朝時代の建物を移築して屋根としている。そこにかかる扁額も清朝時代のもので「曲奏迎神」とある。これは「音楽で災いをなす霊を鎮めた」という故事にちなんでいる。かつてあった台中神社の遺構も残っているが、本殿跡に孔子像が建っていたり、倒壊した鳥居がそのまま保存されていたりという状態である。

台中神社と鳥居修復

台中神社は明治44年(1911)2月、台中公園敷地内の北側に創建された。現在、公園内に横倒しになっている鳥居、面影を残す参道や石灯篭の台座、本殿の基礎部分などは初代台中神社のものである。台中神社は昭和17年(1942)11月、台中公園から北東に12キロほど離れた場所(現在の雙十路二段)に遷座すると同時に国幣小社に昇格した。しかし、この2代目台中神社は戦後、忠烈祠や孔子廟に改められている。

台中公園の横倒しになったままの鳥居は、日本統治時代の貴重な資料として修復が望まれて来た。しかし、國民党立法委員等は「日本統治時代を賛美する修復計画は文化アイデンティティの錯乱」と非難している。初代台中神社の鳥居は、戦後、本殿や参道の石灯籠などとともに破壊され、散乱の憂き目にあったが、平成12年(2000)に台中市政府(林佳龍市長)がバラバラになった6つの石柱を探し求め、不足している2箇所の石柱を新しく造って補充し、案内板も設置された。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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