臺灣臺日海交會

エピソード - 前身は平成7年に結成された臺灣臺日海交聯誼會

日台戦友会の協力でできた台湾における大東亜戦争戦死者慰霊の中心地

台湾では昭和62年(1987)に38年間に及んだ戒厳令が解除されたのを機に、大東亜戦争で戦死した原台湾人元日本兵軍人軍属3万3千余柱と戦争の犠牲者となった住民を祀る事業が、台湾の戦友会と日本の戦友会の協力のもとに進められた。地元福岡でも台湾の澎湖島出身の元軍医・森晴治氏(第5次、第6次訪問団に参加。平成17年の第7次訪問を前に91歳で逝去)が募金活動に尽力され、ご自身の多額な寄付や観音様の寄贈などの努力が身を結び、平成2年(1990)11月25日、宝覚禅寺に「和平英魂観音亭」が建立された。その隣には、李登輝総統(当時)の筆による「霊安故郷」と書かれた慰霊碑が建てられている。まさしく宝覚禅寺は、先の大東亜戦争で散華された英霊、更には犠牲になった民間人までもが一同に祀られている、台湾における慰霊の中心地である。

その後、春秋祭には多くの戦友・軍属が集まり、平成7年(1995)に結成されたのが臺灣臺日海交聯誼會であり、10余年を経て日本の海交会の名称に相対するよう臺灣臺日海交會と名称を変更した。

例年、慰霊祭前日の11月24日に前夜祭を開催してきた。私たち訪問団も平成16年の第6次訪問より招かれ、歓待を受けている。一昨年(平成27年)は大東亜戦争終戦70周年、臺灣臺日海交會は宝覚寺の霊安故郷碑建碑25周年を迎えた。今年より林余立会長に代わり、周良仁新会長体制となった。それを契機に慰霊祭前日の前夜祭を取り止め、会員の皆様の参加し易い25日の慰霊祭後の直会(歓迎会)に一本化された。

エピソード - 林徳華會長

日本軍に奉職できたことが終生の喜びであり、誇りである

「私は日本教育受けた日本人、だから嘘つかない、支那人は嘘つくを本分とする」

以上は、平成25年6月に亡くなられた林徳華先生の生前の言葉である。氏は若かりし日、日本軍に奉職できたことが終生の喜びであり、誇りであると常々語り、宝覚寺の慰霊祭では、必ず冒頭に「私は日本教育受けた日本人、だから嘘つかない、支那人は嘘つくを本分とする」と語り、本論に入ったものだ。

平成25年6月29日に斎行された台中市の自宅での葬儀には、慰霊団を代表して小菅団長が参列した。以下、林徳華先生への小菅団長の追悼の辞を紹介する。

追悼の辞

台湾台日海交会前会長・林徳華様の突然の訃報に接し、団員一同深い悲しみに包まれています。昨年11月24日の台湾台日海交会様主催の歓迎夕食会でお姿をお見かけしませんでしたので、案じておりましたが、こんなに早く永遠の別れの時が到来するとは思ってもおりませんでした。

毎年11月に貴国・台湾を訪問した折には、多くの会員の皆様と共に私たち訪問団員を出迎えて下さり、心のこもった歓待をしていただき、感謝の念に堪えませんでした。今年も11月にお会いして、旧交を温めることを楽しみにしておりましたのに、それがかなわぬこととなり残念でなりません。

長年に亙り会員の皆様と、先の大東亜の解放と祖国防衛のため尊い命を捧げられた3万3千余柱のご英霊に対し、毎年11月25日に「原台湾人元日本兵軍人軍属大慰霊祭」を斎行されてこられたことに心より敬意を表します。

今後も簡朝陽会長と共に台湾台日海交会の更なる発展のためにご尽力いただけると期待しておりましたので、かけがえのない重鎮を失いましたことが悔やまれてなりません。

領台時代に日本教育を受けたことを誇りに思い、 それゆえ嘘をつかないことを人生の指針にされていたお姿にもう接することができないことを想うと深い哀しみを禁じえません。しかし、林徳華前会長のご遺志をしっかりと受けとめ、次の世代に引き継いで、日台両国のより強固な絆の構築に務めてゆく決意ですので、どうかやすらかにお眠り下さい。団員を代表しまして、謹んで哀悼の意を表しますと共に、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

折りしも本日6月29日は今を遡ること145年前の明治2年に靖國神社が東京・九段の地に創建された記念すべき日であります。

平成25年(民國102年)6月29日

日本国 日華(台)親善友好慰霊訪問団
団長 小菅亥三郎

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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