潮音寺

潮音寺(管理事務所)

エピソード - 潮音寺~台湾南端部の25万将兵の御霊の安住の寺

鵝鑾鼻岬とバシー海峡

地図を見ると、台湾の南端部は魚の尾鰭のように二つに分かれており、左側の短い方の先端が猫鼻頭(びょうびとう)、右の長い地形の先端が鵝鑾鼻岬(がらんぴーみさき)で、その入り江が南湾となっている。台湾最南端の鵝鑾鼻岬とフィリピン北端バタン諸島の間のバシー海峡は殊に黒潮の流れが強い。大東亜戦争中にはここで潜伏する米潜水艦や爆撃機の攻撃のために、わが国の多くの輸送船が海没して甚大な被害を受け、"魔のバシー海峡"または"輸送船団の墓場"とも呼ばれていた。

わが国の支配下にあったバシー海峡は、昭和19年(1944)になって制空権が後退するに伴い、門司や高雄から南方(特にフィリピン)へ向かう輸送船や護衛艦艇の200隻、また推定25万の将兵がこの海域で撃沈された。沈没の際、救助された者もあったが、多くは千尋の深海に沈んだ。たまたま浮上した遺体は、潮流で地勢の関係から回遊して、連日の如くに鵝鑾鼻岬から猫鼻頭にかけての南湾海岸に漂着、多い日は数百体にも達して眼を覆う惨状を呈したという。これらの遺体は現地の台湾の人々の善意によって仮安置あるいは仮土葬された後、軍に引き取られ荼毘に付された。

25万将兵の御霊の安住の寺~潮音寺

そんな中、九死に一生を得たひとりに中嶋秀次氏がいる。中嶋氏は昭和19年(1944)8月、5千の将兵が乗船していた輸送船「玉津丸」でフィリピン戦線に向かう途中、米軍により撃沈され、バシー海峡を12日間も漂流の末、南湾に流れ着き本島人看護婦らの手厚い看護によって奇跡的に蘇生した人である。その後、中嶋氏は曹洞宗の僧籍を経て、昭和56年(1961)私財を投じて潮音寺を建立された。中嶋氏が後半生を捧げて建立した潮音寺は広い椰子の林の中に、ひっそりとつつましく建っている。

慰霊堂は鉄筋コンクリート2階建て、白亜の堂宇で延べ約100坪。白木彫りの本尊聖観音とブロンズ製前立観音像が安置され、周囲は造園整備されて、東屋2亭も設けらている。堂宇は、当初は"農社"としての認可だったため「潮音精舎」と命名され、昭和63年(1988)には政府から寺廟としての認可がおり「潮音寺」と改名された。その後、11月末を主に、遺族が中心となり随時慰霊祭が催されている。

平成21年(2009)、潮音寺の土地が第三者に売り渡されたことによって、潮音寺が取り壊される可能性があると指摘されていたが、裁判・和解を経て平成27年(2015)に潮音寺関係者が地権者になっている。「烏來高砂義勇隊戦没英霊記念碑」の時のように戦没者の慰霊を遺族にまかせ、国家として自国民の戦没者の為の戦後処理をしっかりやってこなかったこともこのような混乱を招く一因となっていると思われる。現在、潮音寺の広い寺域や寺の修復に関する管理一切は、高雄在住の鐘佐榮氏(地権者)、呉昭平氏を中心とした管理委員会によりなされている。

潮音寺本堂2階の回廊からはバシーの海が見える。海は青く澄んで穏やかで、平和な海のように感じる。しかし、この海底深く、今も20万余柱の同胞の魂魄が眠られていることを、決して忘れてはならない。

この潮音寺に、ご英霊が心静かに安まれることを願っている。

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

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